ウィル・スミス大絶賛の「ジュピターズ・ムーン」がとても面白かった

先週観てきました。渋谷のヒューマントラストシネマにて。

ここの劇場は居心地がいいことはもちろん、飲食物がしっかりおいしいのが素晴らしい。(「セッション」に出てくるレーズンを入れたポップコーンに似たやつがおいしい)(ビールもハートランドが置いてある!)

あらすじは下記にて。

医療ミスによる訴訟で病院を追われた医師・シュテルンは、難民キャンプで働きながら違法に難民を逃すことで賠償金を稼ぎ、遺族による訴訟取り下げを目論んでいた。 ある日、被弾し瀕死の重傷を負った少年・アリアンが運び込まれる。シュテルンはアリアンが重力を操り浮遊する能力を持ち、さらには傷を自力で治癒できることを知り、金儲けに使えるとキャンプから連れ出すことに成功する。 その頃、アリアンを違法銃撃した国境警備隊が口封じのため彼らを追い始めるが、行く先々で起こる失踪やテロ、不可解な事件の現場に少年の痕跡が残されていることに気づく―

カンヌで審査員を務めたウィル・スミスが「「ジュピターズ・ムーン」が本当に好きだ。これから先、何度も何度も繰り返し観たいと思う最高の映画だったよ。だけど他のどの作品も素晴らしくて審査員のみんなを説得できなかった。時に民主主義って最低だね」と称した一作です。

ちなみに「ジュピターズ・ムーン」ってどういう意味?と気になる方が多いはず。下記をご参照あれ。

「ジュピターズ・ムーン」とは・・・
現在、木星には67の衛星があることがわかっている。そのうち、天文学者ガリレオ・ガリレイによって発見された「エウロパ」は、「ヨーロッパ」の語源となったラテン語「EUROPA」と同じ綴りの衛星だ。エウロパの地表を覆った厚い氷の下には塩水が流れ、そこには生命体が存在する可能性も示唆している。つまり人類や生命体の「新たな命の揺りかご」になり得る場所なのだ。本作を近未来を舞台にしたSF映画として企画したコーネル・ムンドルッツォ監督は、リアルなヨーロッパではなく、どこかにある”もうひとつのヨーロッパの物語”だという思いから、本作を木星の月(₌エウロパ)と名付けた。(本作パンフレットより)

結論、とってもよかったです。(僕も繰り返し観たいぞ!ウィル!)

下記、ちょっとネタバレします。(すみません)

まずなんといっても素晴らしいのは、主人公アリアンが浮遊する映像表現。どうやって撮っているの?と思ってしまうくらい(ちなみに俳優とカメラをクレーンで吊って撮影したとのこと)。

主演俳優の飛び方がとっても端正だから、尚更きれいに見えるんですね。軸が細くてまるでバレエダンサーを見ているよう。

そんな主人公の名前はアリアン・ダシュニ。アリアンという名前がどことなくシェークスピアの「テンペスト」に出てくる妖精”エアリアル”を彷彿とさせるお名前。(実際、念頭にして作られているとのこと)

その点、上記ジュピターズ・ムーンというタイトルの由来もそうだけど、天文学であったりオカルト(?)系に造詣が深い方であれば、なお一層楽しめる作品だと思います。

主人公は冒頭にて銃撃に会うわけですが、その後は果たして生きているのか死んでいるのかが一切語られない。ここはこの作品を一味違うものにしている重要なポイントです。

(本作の舞台は”エウロパ”なので、生きていても死んでいても、たとえ主人公が何をされても死なない設定でも、何があっても成立してしまうんですね)

ただ、そういっただいぶ非現実感あふれる要素と相反して、今なお現実世界で起こっている難民問題の描写がリアルなんですよね。なので、あれ?これはドキュメンタリーなのか?と少し悩みました。(ちなみに、本作の舞台であるハンガリーは、ヨーロッパの中で最も移民・難民に厳しい国だそう。)

いや、エウロパなんですが、監督はフィクションでありながら現実を反映させた物語として観てもらいたかったんですね。(下記の言葉にもあるように。)

「この映画は”alien(宇宙人、外国人、よそ者)”を描いている。”誰がよそ者なのか”と問いかけているんだ。それは視点の問題にすぎないが、”信用”や”奇跡”、”周りとは違う”ということに対し新たな問題を提起するには、遠く離れた惑星の出来事のようなイメージの方が適している」

「本来は未来という設定だった。しかし映画の制作資金を集めているうちに、描こうとしていた事態が起きてしまったんだ。難民たちを取り巻く情勢が現実になったため、そのまま撮影すべきか議論をしたよ」

「残念ながら最初に考えていたような未来の物語ではなくなった。しかし難民という題材を語るうえで、また”奇跡”とは何かを改めて考えるコンテクストとしても、現実の危機的状況を取り入れることは必要だった」(本作パンフレットより)

というか、制作しているうちに収束させていった力量に感服してしまうな…。

また上記背景に加えて、やっぱり脚本が素晴らしい。予告編のみだとやはり浮遊シーンの映像表現に着目しがちなんですが、そこを取っ払っても十分楽しめるかと。

本作は「奇跡(天使であったり、神)と相対した際に、あなただったらどうする?」ということを投げかけていたんですよね。

銃に打たれたアリアンを救うのが、飲酒状態で医療ミスをするという許されざる罪を背負った医者(生き返ったかどうかの描写はありません)。遺族のもとに賠償金と謝罪を述べても許される(救われる)ことはない。

突如出会ったアリアン<神・天使>に、自身の罪の救いを求めるんですね。

また、移民であるアリアンを狙撃した警官。彼は偶然にもアリアンの浮遊を目の当たりにして、アリアンに興味を持ち、最後は追い詰めるわけですが、結局は見逃してしまう。

それは、人智を越えた存在を目の当たりにして、どう接するべきかに戸惑っているから。果たして、天使ないしは神のように見える存在を自らの手で裁けるのか?と。

この3人の重厚な関係性はとても見ごたえがありました。

そして、素晴らしいラスト。

英語でかくれんぼをしている難民の子どもが、「Ready or not, here I come.(準備ができてなくても行くよ)」と。これは奇跡(アリアンの出現)や危機はいつ訪れるのか予測できないというメタファー。

また、警官のシーンをうまく引き継いでいるんですよね。アリアンを追い詰めたものの、結局は見逃したあのシーン。それもどこか納得気な表情で。

その時の彼の心情を、ラストで物語っているのかなと思いました。

今は見逃すけど、”もう待てないよ”と。

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