月別アーカイブ: 2013年11月

Save me, take loop.

レイトショーで観てきました。(ネタバレはありません)

レイトショーの映画館。知り合いカップルを見かけてしまった時の気づかれたくない感は凄まじいですね。めっちゃそわそわしてました。

そしてすごくどうでも良い話ですが、神奈川の109CINEMAS系列で流れる「一平不動産」と「湘南カインズホーム」のCMのセンスは酷すぎると思います。酷すぎて逆に気になる。どういうプロセスで作られているんだろうか。

まぁそれはさておき、終わってしまいましたよ、SPEC。

すごく腑に落ちました。面白かった。世界観は広がり過ぎて、向井理演じるセカイのセリフとか、ちょっと違和感あるなぁと思ったけれども、よくまとめられてるな。と思いました。劇場版の天のラストシーンで当麻がとっていた行動も、きちんと繋がってましたね。

以前、昼間にやっていた映画SPEC公開特集番組で、堤監督が「気づく人は気づく」と言っていたシーンも分かって良かった。おかげでエンドロールもエンドロールの後も気が抜けなかったけれども。そして、エンドロールはこの物語を読み解くのに重要なヒントだったのか。

個人的に、SPECの終わりに適したシーンは三つあったと思います。

一つ目は、ドラマ版の終わり。当麻がSPECを使用して地居を倒すシーン。いい感じに謎も残り、独特の余韻を残す。エンドロールの後に当麻が独特の口調で「映画化なんてしねぇ」と言い放つ。いいですね。

二つ目は、翔で当麻の手を掴んだ瀬文が、当麻に温かい言葉を投げかけるシーン。あれは名言ですね。また、言い方が二人の不器用な関係性を象徴しているようでイイ。あそこで終わってもかなり綺麗だったかなぁと。

そして三つ目は、今回の爻ノ篇。漸ノ篇を観たとき、すごく納得がいかず、「二つに分ける意味あるのか?これ」とか思ったけれども、きっと二つに分けていなかったら、こんなに漸ノ篇が引き立たなかった。これも演出の一つなんだと思うとやっぱりすごい。爻の篇の上映が開始して、今なら「漸ノ篇を観て、すぐ次の時間に爻ノ篇を観る」っていう鑑賞方法が出来るなぁ。と、ちょっと羨ましく思っていたけども、実際、少し間を置いた方が楽しめる気がしました。公開日を約4週間空けたのもすごく絶妙だったんだなぁと。

それくらいすごかったです。

以下、思ったことを諸々。

堤監督の作品は、カメラワークの点において、テレビドラマの方がイイような気がしました。ドラマ版だったら当麻を固定アップで撮るシーンも、映画ではスクリーンの大きさを考慮に入れ、より臨場感を出す為にカメラが固定ではなくなっている。堤監督の独特な撮り方はそのままにした方が良かったかなぁと。SPECで言えば、各回の始まりにおいての空から都庁などを撮影するシーンなど、あの雰囲気はSPECにおいて結構重要な要素ですよね。あの独特な感じは残してほしかった。

ただ、シュールな抜き方は流石。セカイと白い女と対峙する瀬文の場面に入れてくる感じ。まぁ、あのシーンは理由もなしにいきなり感がありましたが。でも、他の映画の出演者なり、アナウンサーを出演させるTBSはくどい。ものすごく鬱陶しいプロダクト(?)プレースメント。

また、今回の作品で、シンプルプランの説明として使われていたなじみ深いものにしろ、他の回におけるものにしろ、脚本の西荻弓絵さんの作品は、身近なものを入れるセンスがいいな、と思いました。

前回の安堂ロイドにおいて、”想い=素粒子”であると、沫嶋教授が発見した際のキッカケは東日本大震災でしたね。(観てるのか!お前!!って感じかもしれませんが、脚本家が好きなので面白くなるんじゃないかと期待して観てます。)(今もつまらなくはないです。ただ、設定が近未来すぎて日本のテレビであれを題材にするのが難しいんだろうなぁ、という。)

エンドロールのセンスも良かったなぁ。SPECっぽいなぁと思いました。SPECのドラマ版において、あの独特なごみごみしたエンドロールや、シャボン玉が飛ぶエンドロールのセンスが好きっていう人は多いはず。THE RiCE COOKERSの”audioletter”も良い歌。

話めっちゃ変わりますが、結で、韓国語を話す要人女性という役名(笑)で出演していた女優さんがとっても美人で美人で。自分はアジアンビューティが好きなのか。と、改めて思いました。(あくまでも外見上のあれですが)(そういえば、高三の時に好きだった人も黒髪モデル体型だった)

ああ、大好きな作品が終わってしまった。

なんとなく観ていたこの画像も、よくよく見るとそんな意味があったとは、と。もしかしたらSPECは、当麻と瀬文の究極のラブストーリーなのかもしれません。

今更ですが、「当麻」「瀬文」って名前いいですね。そして、「セブミタケル」という名前が”Save me,Take loop.”から来ているという説。天才ですね。(今回の作品見ると、うおーっ、と。)

主役の二人の人間性が、たまらなく好きでした。

さようなら、SPEC。

就活のハナシ。

そう。解禁されましたね。

ファーストキャリアの選択。
大事なことだと思います。自分がこれから生きていく環境を決めるわけですから。

でも、定年までそこに安住するわけではないですよね。
そこまでして入りたいと思う企業があるのであれば、転職でもして入れば良いと思うんです。

そして、「内定をもらえない=失敗」は意味しないわけで、ただ単にそれは「自分とは合っていない」と企業側が判断した結果なわけです。
そう考えると、自分が入りたいと思う企業が、本当に自分と合う企業とは限りません。

こんなことを言うと、「じゃあ、内定がゼロだったらどうするんだ。」と言われます。

でも、自分の本当にやりたいことは、内定がなかったら、就職ができなかったら、出来なくなるわけではないですよね。
本当にやりたいと思うのであれば、大抵は就職しなくても出来ます。(不安定かつ、物凄く小さなところからスタートすることになりますが、それでもやりがいはあるはず。)

内定をもらって安心したいという気持ちは、かなりよく分かります。自分も思いますし。
ただ、内定を貰えないからと言って、その人自体が否定されているわけでも、その人が無能なわけでもないわけです。

クランボルツの計画的偶発性理論なんかも関わってくるかもしれないですね。
そもそも人生やキャリアは、自分の計画通りに進むものではありません。

「自分の価値を人に判断させたら大抵悪い方に向かうから、僕は試験とかコンペとか参加したことがない。審査員も全てお断りしている。人に理解されたら終わりなのである。落ちたら凹むのになぜ試験受けるのだろうか。人に判断させないことが一番。人は自分の理解の範疇の人しか合格させることができない

僕は大学生のときから言っていることは全く同じであるが、当時はみんなわらっていたし、先生からお前馬鹿じゃないかとしっかり言われてた。でも、人に理解されていないということは誰もやっていないし誰も気づきたくないことなのだからそのうちきっとと思ってた。将来が不安ということは未開拓な場所

すごい人はなんとか賞や面接を受ければいいのだ。どうせすぐ理解される。才能がないと思う人は人に判断させては駄目である。一人でやる。一人でも黙々、他人から見たら不安になるようなことをやっているというのが一番不気味なのだ。社会が動揺するのだ。それが個人の仕事なのだ。労働は試験から始まる。」

上記は、10月下旬の坂口恭平さんのつぶやき。少し通づるものがあるかもしれません。

就活をビジネスとしている企業は「周りと差をつける」であったり、「出遅れないために!」であったり、「成功するために!」であったりと…色々な言葉を使って、就活生を煽動します。
就活情報サイトには「チェックをつけた企業にまとめてエントリーする」なんて項目もあったりして。(どんだけだよ。とか思ったりします。)

ただ、就活のテクニックばかり磨いても意味が無いですよね。就活で生きていくわけではないので。

そうとは心のどこかで分かっていながらも、「やらない後悔よりもやる後悔」というあれなのか、12月で説明会まだ◯◯しか言ってないと焦る学生や、OB訪問できてないどうしようと言う学生もいます。
正解がないから安心もない分、不安で不安で堪らない就活生はどこまでものめり込んでしまいます。

じゃあ、何故不安になるのか。
それは恐らく、周りと比較しているからですよね。

これをこの期間にやっておけば安心だ。といった確立した方法論もない分、比較して周りを測りながら進めていきがちなのは当然だと思います。受験でもなんでもそうです。
でも、比較しても意味がないはず。比較でしか自分のアイデンティティを確立できないなんて悲しい。
そして、周りと比較して得られるものなんてたかが知れている。

そんな就活に対しても、「自分のやり方を貫いてみたらどうか。」と思うんです。

自分のやりたいようにやれば、成功しても失敗しても納得がいく上に、後悔はしないはず。そもそも成功、失敗を決めるのはその人自身であって、いくらやっても、いくら周りから褒められても、失敗と考える人もいます。

その上、自分のやりたいことを思いっきりやれている時間の充実感ってすごいですよね。

就活はしたくないと思う学生は別にそれも良いと思うんです。
就活以外の道もあります。

ただ、違う道に進む覚悟もないままに就活はしたくないと思うのであれば、それは間違いでしょうけど。

西村佳哲さんの「自分の仕事をつくる」という本には、

“ところで、私たちが会社から仕事を買っているとしたら、そこで支払っている対価はなんだろう。それは「時間」である。そして時間とは、私たちの「いのち」そのものである。”

という一節がありますが、本当にその通りだと思います。

これからの自分の働き方を考える事は、これからの自分の生き方を考えることでもある分、就活って、自分のこれからの働くを考えるには、絶好の機会でもあるんですよね。

だから、「周りがやっているから」とか、思わなくて良いんじゃないでしょうか。就活をどう進めていくかも、その人の生き方で変わってくるのでは?なんて思います。
それでやっていなかった学生は評価しないとかいう企業がもしあるのであれば(ないとは思いますが)、そんなとこには入らなくていいはずです。
色々と学生の行動をカウントしている企業があるとかないとか聞きますが、そういうのにはうんざりします。

自分のペースでやればいい。
自分がもっと知りたいと思う企業は知ろうとすればいいし、自分のことをもっと考えたければいくらでも考えられるはず。

「あいつ、◯◯なんだってー!すごいねー!」と、ネームバリューで人の”優秀”を測る声は多いです。
確かに優秀だと思います。なかなかもらえない内定を勝ち取ったのは、その人の良さが評価されているわけですから。
でも、ネームバリューのある企業に入らない学生も”優秀”であったりもします。

本当に大事なのは、周りに優秀だと思われる企業に入ることではなく、”自分の生き方に合った企業に入ること”と、自分は思っています。

でも、上記は自分が大事にしているだけであって、「自分にとって何が大事か」が人によって違うのに加え、正しい、間違っているの判断もその人自身にしかできないんですよね。
有名な外資コンサルにどうしても行きたいと思えば、その為に頑張れば良いし、名の知れたところの入りたいと思うのであれば、それはそれでいいんです。

しかし、就活に関する「成功」として各種メディアで述べられるのは、大抵が”有名企業への内定バナシ”。
結局、有名かそうではないかということは、指標として分かりやすいんですよね。
だから、それが罷り通っているし、先行してしまう。

いつまでたっても、この国は教育に関しても就職に関してもランキングから抜け出せないんです。
偏差値の高い大学にいけば、まわりから賛美され、名の通った有名な企業にいけば、その人も格も上がると。

就活の成功って一体なんでしょうか。
成功って人それぞれ違うものではないのでしょうか。

皆が一度くらいは名前を聞いた事があるであろう某有名企業の内定を蹴って、ベンチャー企業に就職する学生もいれば、大学入学当初から行きたいと言っていた有名広告会社に見事就職した学生もいる。ベンチャー企業でのアルバイトから、そのまま社員となった就活ゼロの学生もいます。

倍率やらランキングやらで、都合のいい尺度を見立てて人を測るな。と言いたくなります。

そう。つまりは、この一言を言いたかっただけ。笑