」カテゴリーアーカイブ

「超・箇条書き」を読んだ。

A・Tカーニーのマネージャーが書かれた一冊。

友人がおすすめしてたから読んでみたけど、確かに良書でした。

下記、確かにな~と思ったポイントをサマっておきます。

体言止めに逃げてはならない

「コストの低下」と記載しても、コストが下がったのか、下がっているのか、下がるのか、下げたのか、下げているのか、下げるのかがわからない。
そもそも状態を表すものか、行為を表すものかわからない(もちろん、読み手もわからない)

体言止めというのは多義的で、曖昧であるという前提に立つ必要がある。

構造化には「ガバニング」

ガバニングは直訳すると「統制する」などの意味。
外コンで「ガバニング」といえば、一般的に”頭出しのまとめ”を指す。 = 「ポイントは3つ」と宣言するやつ

スティーブ・ジョブズはガバニングの達人だった。

“Today, I want to tell you three stories from my life. That’s it. No big deal. Just three stories.”
(今日ですが、私はみなさんに、人生から学んだ3つのことをお話ししたいと思います。それだけです。たいした話はしませんから。ほんとたった3つの話しかしませんから)

“The first story is about connecting the dots.”
(最初の話は点と点をつなぐということです)

・・・(中略)・・・

“My second story is about love and loss.”
(2つ目の話は愛と喪失に関するものです)

・・・(中略)・・・

“My third story is about death.”
(私の3つ目の話はしに関するものです)

・・・(後略)

「フックをつくる」ことで相手の関心を掴む

相手が聞きたい、読みたいと思ってくれるように、関心を引くためには物語化が必要。
そして、物語化にはフックをつくる = 自分に関係があるものと認識される必要がある。

■フックをつくるコツ:イントロづくり ⇒ 出だし・書き出しを工夫する

ユニクロの投資家向けプレゼン資料では、箇条書きがよく使われる。

2015年8月期の振り返り
●海外ユニクロ事業が高い成長を維持
 ・特にグレーターチャイナ、韓国の業績が好調
 ・米国事業の赤字幅が拡大、全社をあげて課題への対策を強化中
●国内ユニクロ事業は増収増益を達成
 ・秋冬シーズンは、ヒートテック、ウルトラライトダウン、ウールセーターなど、冬のコア商品の販売が好調
 ・春夏シーズンは6月から売上が低調、4Qは大幅な減益
 ・マストトレンドを掴んだ商品開発、ニュースの発信力に課題
 ・2014年10月には、グローバル旗艦店のUNIQLO OSAKA、グローバル繁盛店の吉祥寺店を出店し、成功を収める
●ジーユー事業が大きく成長
 ・2015年8月期は大幅な増収増益を達成
 ・”ファッションと低価格”の新しいアパレルブランドとして、日本市場で確固たるポジションを確立

イントロにあえて「海外事業」を持ってきているところがポイント。

2015年8月期において、ファーストリテイリングの最大事業は圧倒的に国内。(全社売上の約46%)
海外事業は36%で、第二事業の立ち位置。

海外事業を伸ばすことが経営方針であり、強調すべきだから最初に持ってきた。
+投資アナリストもそのことを理解し、関心がある。だからこそ、事業規模の大きさを無視している。

ただ、アンサーファーストは万能ではない
結論をイントロに持ってくることは「アンサーファースト」と呼ばれる。

しかし、その妥当性は相手によりけり。
相手がまだ背景や経緯を理解していないときは、いきなり結論を持ってくるべきではない。
一方、最終報告など、相手が背景や経緯をすでに理解している場合は最初に結論を示すべき。

■フックをつくるコツ:「MECE崩し」で山場を作る

MECEの弊害=フックをなくし、相手の関心が引けなくなること
相手に伝えるべき情報、伝える必要がない情報を精査した結果、MECEにこだわらないほうがいいケースもあることに留意する

「スタンス」をとる

ダメな箇条書きは「で、それが何?」で終わる、
大事なのは、賛成なのか、反対なのか、A案なのか、B案なのかの「スタンス」を明確にすること。

多分、コンサル1年目が言われ続けるやつ。

「隠れ重言」を排除する

重言=顔を洗顔する、頭痛が痛い など

隠れ重言は、当たり前すぎてわざわざ伝える必要がないこと。

例えば、サッカー日本代表戦の解説で「日本はゴールが欲しいですね」などと言ってしまうこと。
サッカーをしていれば、ゴールを目指すのは当たり前。

こういった些末な事項で箇条書きを埋めてしまうのは勿体ない。伝えられる情報量には限りがある。

プレゼンにおけるNGワード集

~を改善する
上手くいってないのだから、改善するのは当たり前
⇒ 改善すること自体ではなく、どのように改善するかを相手に伝えないと意味がない

~を見直す
上手くいっていないのだから、見直すのは当たり前
⇒ どのようにして見直すのかを相手に伝えないと意味がない

~を推進する
やることが決まっているものを推進するのは当たり前
⇒ 具体的に何をするのかを相手に伝えないと意味がない

~を最適化する
最適化できるならするのは当たり前、最適化したくない人はいない
⇒ 具体的に何をすると最適化されるのかを相手に伝えないと意味がない

~のバランスをとる
これは「~を最適化する」と同じ、バランスをとるのは当たり前
⇒ どうなるとバランスがとれた状態で、そのために何をすればよいかを相手に伝えないと意味がない

~を徹底する
徹底できるならするのは当たり前
⇒ 具体的にどのように徹底するのかを相手に伝えないと意味がない

~を強化する
これは「~徹底する」と同じ、強化できるならするのは当たり前
⇒ 具体的にどのように強化するのかを相手に伝えないと意味がない

~を実行する
やっていることや、やることが前提のものを実行するのは当たり前
⇒ 実行すること自体ではなく、具体的に何をするのかを相手に伝えないと意味がない

時たま、お偉いさんのプレゼン内容が全く頭に入ってこないなーと思うときはだいたいこのワードが頻発だったりするな~と。

「たった一人の熱狂」を読んだ

自己啓発本の類って、読んでるだけで何かやってる感を醸成するあの独特な雰囲気が苦手で、普段は手を付けない派なんですが、これはそんなこと言ってられないくらい良かった。まさに劇薬。

というか、別に自己啓発本ではないのか。エッセイが近いかも?です。

幻冬舎創業者の見城さんが755(懐かしい)で寄せられた質問に真剣に回答した、その回答集。という立ち位置。

以下、特に刺さった一節をメモとして。

 僕は若い頃から「これは売れなかったがいい本だ」という言い訳は一切やめようと決めてきた。株で儲けろ、という本が売れようと、ヘアヌード写真集が売れようと、セックスの指南本が売れようと、ベストセラーは大衆の中でくすぶる欲望の奥深くに突き刺さっている。大衆の欲望を鋭敏にとらえた本だからこそ、多くの読者に支持されて沢山の部数が売れるのだ。
 自分の中に何かが突き刺さらなければ、人は身銭を切って本なんて買わない。売れる本は、マジョリティの大衆が抱える無意識の欲求や欲望をつかみ取っている。売れる本は良い本であり、売れる本は無条件で尊敬すべきなのだ。


「売れるものはいいものなのである」という原理原則に目を背けて、言い訳したくなるタイミングがこれまで数知れずあったなぁ…と反省の思いです。

 「あなたの一番のセールスポイントは何ですか」と問われれば、僕は「自己嫌悪です」と答える。自分が駄目になっていることを自覚できない人間は駄目だと思っている。…
 …僕はよく755で、若い人にこう言っていた。「自己検証、自己嫌悪、自己否定。この三つがない人間には進歩がない」。このうち一番易しいのは自己検証だ。「今まで自分はこう思い込んでいたけれど、もしかしたらそれは思い違いだったかもしれない」。自分の思考や行動を客観的に検証し、修正していく。これなら今日から誰にでもできる。
 僕は自己嫌悪を突き詰めるうちに自己否定まで自分を追い込む。…
 …「文芸元年」と銘打った94年の幻冬舎立ち上げから20年以上が過ぎ、「見城さんは十分、地位も名誉もあるのだから、そんなに自分を追い込まなくても良いのではないか」と言う人もいる。冗談も休み休み言って欲しい。現在に安住し、自己検証と自己嫌悪と自己否定を忘れるようなことがあれば、もはや僕には生きている価値はない。
 「自分はまたしても駄目な人間になってしまった」と自覚するからこそ、人は永遠に戦い、永遠に成長し続けられるのだ。


セールスポイントが自己嫌悪なんて、どんだけ死線をくぐったら言えるようになるだろう。いやくぐり数の有無というよりいかに常時謙虚なスタンスになれるかということが重要なんだろうな。

同じような成功を経験したと仮定したとして、あえて成功した自分を捨て、新たに自分を低く設定できるだろうか。

 毛沢東の革命の三原則は、①若いこと②貧しいこと③無名であること。僕はこれに④無知であることを加えて、「革命の四原則」と呼んでいる。
 無知だからこそ、とんでもない発想が生まれるのだ。


これはまさしく自分だなと思いつつ、革命のような何某を起こして死ぬ人生でありたいなと。獅子奮迅の思いです。

 755では「社内の嫉妬が気になる」という質問が寄せられることがある。妬み、嫉み、僻みの三拍子が揃った人間は、どこの組織にもいるものだ。社内で業績を上げて目立つ人がいると、妬みに駆られた卑劣な人間は「スタンドプレイをしやがって。生意気な奴だ」と陰で足を引っ張る。
 大した差でもないのに注目されるから、人から焼きもちを焼かれて嫉妬されるのだ。有無を言わせない圧倒的な差をつければ「あいつの仕事には誰もかなわない」と周囲の目はあきらめに変わる。…
 …圧倒的成果を出せば、社内で僕の足を引っ張る妬みの輩などいなくなる。なにしろ角川書店の売上年間ベスト10のうち、僕が担当した本が毎年、7割は占めていたのだ。会社のためにずば抜けて利益を上げていることは誰もが認める客観的事実だった。
 だから1人5万円はかかる名店「京味」で何度会食しようが、月400万円近く経費を使おうが、誰も文句は言わなかった。文句は言わせなかった。…
 …ただし、圧倒的結果を出したからといって決しておごってはいけない。僕はこれまでたくさんの成功した起業家と付き合ってきた。彼らは一様に、成功したからといって調子に乗ることはない。おごる者は、知らず知らずのうちに見えない敵を作る。
 いい気になっておごり高ぶる傲慢な人間は、必ず堕ちていく。トップランナーであり続ける成功者ほど、みな謙虚だ。褒められても「いやいや、たいしたことはないですから」と静かに笑い、自分の話は早々に切り上げる。
 傲慢な人間から仲間は離れ、謙虚な人の周りには協力者が集まる。ビジネスの世界を勝ち抜く本当のしたたかさを持っていれば謙虚に振る舞うのは当然だろう。おごれる者は久しからず。謙虚であることは、成功を続けるために必須の条件なのである。


新卒から一貫して、この目線を持てていなかったな…。

 自分の身を切らず、自分の身を痛めずして、安全地帯で身を守りながら「キャラを立たせたい」と言ってもどだい無理な話だ。
 「見城徹という男はずいぶん生意気だが、刺激的な編集者ではある」。そう作家に理解され、他の編集者から頭を一つ二つ抜け出すためには、身を削りながら、涙がこぼれ落ちる切ない作業を重ねなければならない。相手と決裂し、物別れに終わるリスクも引き受けながら、僕は作家とがっぷり四つに組んで原稿を磨き上げて来たのだ。
 君は職場で目立つ人を見て「あいつはいいな」とうらやましく思うかもしれない。だが、そういう人は誰にも見えないところで魔物のような不安に夜な夜なうなされ、自傷行為のように身を削る努力をしているものだ。
 身を切り、血を噴き出しながら命がけで仕事をしてこそ、初めて圧倒的結果が出る。人人から認めてもらえる。「ここに〇〇あり」と皆に気付いてもらい、キャラクターとブランドを確立するためには、自らの身体から噴き出した血で旗を染め、その旗を高々と掲げるしかないのだ。


リスクを冒せ、と成功者が常々声高高にのたまうケースはもう見飽きるくらいに見たのだけれど、じゃあ、どんなリスクをとってきたの?という部分はちょっと気になりました。起業の流れをまとめたような本は多々あるけれど。

要はどんな意思決定を行なってきたの?というのを事細かに知りたくなってきたので、ちょっと調べてみよう。「私の履歴書」が近しいか。

 努力を積み重ねて価値を集積していけば、ビジネスパートナーや得がたい戦友は向こうから近付いて来る。
 755では「有名人や芸能人と仲良くなるにはどうしたらいいですか」と質問して来る人もよくいる。
 こんな質問をする時点で、その人はまったく見込みがないと思う。人は君がどんなカードを持っているか、冷静に見ているものだ。君の価値を決めるのは君自身ではない。相手だ。君が仕事で結果を出し続けていれば、「あの人はキラーカードを持っている」と気付いた人が向こうから近付いてくる。
 美人の周りには大勢の男性が集まる。努力して得た美貌であれ、天性の美貌であれ、美しさはその人の価値だ。有り余る金もその人の価値である。僕は容姿がいいわけでもなく大金持ちでもなかった。僕の1枚目のキラーカードは「本を出せる」「原稿を書ける」というだけのものだった。そこから圧倒的努力を続けた。
 だから出版の世界はもちろん、政界、スポーツ界、芸能界、テレビ界、経済界にも影響力を持てるようになった。有名人や芸能人と仲良くなるためのHOW TOなどない。
 努力に努力を重ねた君の生き方の集積が1枚のキラーカードになり、それが10枚貯まった時初めて人はあなたに近付いて来る。


ごもっとも。自分を磨き続けたいな、磨かなきゃな、という強い想いをこのタイミングで持っていたことを忘れないように、備忘録的にメモ。

 異物のような表現者と出会った時に、「嫌いなものは食べられない」と拒むようでは編集者の仕事は面白くならない。妥協して付き合うのでもなく異物はガリガリと嚙み砕き、ゴクリと呑み込む。異物を呑み込めない人に進化はないと思うのだ。


言葉の綾が面白くて、やはり編集者なんだなと….。(幻冬舎代表のイメージしかなかったので)

あまりこの表現を見たことがない。

 忙しさにかまけて相手に感想を伝えることを横着したり、感想を伝える気持ちが最初からない人がいる。感想を伝えるということに無頓着な人とは僕は付き合えない。感想を伝えることは、人間関係の最初の一歩だ。感想を言わなければ、初対面から始まった人間関係が滋味深いものへと発展することはない。さらに言えば、誠意とスピードだ。たとえ短い感想であっても、できるだけ早く相手に自分の想いを伝える。スピードにこそ、その人の誠意があらわれる。
 結婚式やパーティーのスピーチであっても僕はすぐに感想を伝える。
 文芸編集者として40年以上生きてきた僕は、相手に感想を伝えることに心血を注いできた。だから映画や芝居を観る時も、本を読む時も頭をフル回転させている。映画や芝居を見てしまったら制作スタッフや俳優にすぐに感想を伝えたい。本を読んでしまったら作家にすぐにぶつけたい。相手は感想を待っているに決まっている。次なる仕事への滋養にするため、生身から発せられる感想に飢えていると言ってもいい。だから常に僕は感想を言い表わすのに一番ぴったりな言葉を探して、のたうち回っているのだ。


無下にしがちな部分だけれど、大事だなーと。改めまして。

 仕事ができない人間の共通点は、自分に甘いこと。思い込みが強いこと。小さなこと、片隅の人を大事にしないこと。約束を守らないこと。時間に遅れること。他者への想像力が足りないこと。


これまで10年くらい社会人をしてきて、個人的な解釈でレベル感を付けると下記の順番でやばいはず。

①約束を守らない≒時間に遅れる:論外
②自分に甘い:個人単位のアウトプットクオリティが低下
③思い込みが強い:個人単位のアウトプットクオリティが低下
④他社への想像力が足りない:チームで働けない
⑤小さいことを大事にしない:個人、チーム双方に影響するが、大枠は捉えられているため

中途採用で、前職で結果を出してきたと思われる方でも、意外とチームプレイできない方がいらっしゃったりするのを思い出しました。反面教師で意識せねば。

 竹下登元総理は「自分で汗をかきましょう。手柄は人にあげましょう」と言ったそうだ。氏家さんはこの言葉を口にしながら「見城、僕はこの一行を加えたんだよ」と教えてくれた。「自分で汗をかきましょう。手柄は人にあげましょう。そしてそれを忘れましょう」「自分で汗をかいて働き、手柄を人に譲れる人なんてほとんどいない。その上、人に手柄を譲ったことを忘れられる人なんて、一人もいない。見城、お前はその一人になるんだよ」と、氏家さんは何度も繰り返し教えてくれた。
 恩は人に与えるものだ。そして、人にGNO(義理・人情・恩返し)を与えたことはきれいに忘れてしまう。田邊さんや周防さん、氏家さんのような「志高いやせ我慢の男」には、歯を食いしばって心の中で醸成してきた厚みのある色気が匂い立つ。


素晴らしいの一言。待ち受けにしたい。

 創業の翌春(94年3月25日)、幻冬舎は最初の6冊の作品を同時出版した。この時僕は「闘争宣言」と題するメッセージを発表している。
 <もう一度ゼロに戻したい。もう一度一つ間違えれば地獄へいく薄氷を踏んでみたい。そんな想いのなかで幻冬舎は出発しました。逆に言えば、幻冬舎の社員ひとりひとりの人生の問題として、今の自分に否定形の「NO」を言い続けるためにも、幻冬舎は設立されたのです。>
 角川書店時代の僕は33歳で雑誌編集長に就任し、41歳の若さで取締役編集部長まで昇進した。しかし「角川を離れなければ自分が駄目になってしまう」という想いが常にあった。「角川の見城」というブランドに寄ってくる人間に対し笑顔を見せている自分に吐き気すら感じていた。現状維持をしている限りいい仕事はできない。
 僕はなかなかゼロに戻せなくなっている自分に危機感を募らせていた。
 その後、角川書店を退社し、それまでの蓄積をいったんゼロに戻した。角川春樹社長の事件がなくてもいずれ辞めていたに違いない。会社を辞めて起業するのは、かなり極端なリセットだ。
 そこまで極端ではないにせよ、君たちにもリセットボタンを押さなければならない局面はあると思う。
 一つのプロジェクトで成功して大きな結果が出せれば、以後2~3年は成功の余韻と貯金で食いつないで行けるかもしれない。この状態が一番危険だ。ものすごい追い風が吹いていたり、競合他社がまったくいない無風状態であれば、すでに出た結果に寄りかかっているだけで15や20の結果を出すこともできるだろう。
 だが、そんなことは極めて稀だ。10の結果に寄りかかって安住していれば、次は8や6の結果しか出ない。それでもまだ現状に甘んじていれば、次は結果が5になり、2へと縮小再生産していく。
 自分が仕掛けたプロジェクトがブレイクし、大衆から注目を集める。そういう時にこそ、我が手につかんだ成功をゼロに戻し、新たなセンチへと転戦するべきなのだ。現役選手は常に現場にいなければならない。表彰台の上でいつまでもふんぞり返っているようであれば、現役なんて辞めてとっとと現場から退いたほうがいい。
 なぜ僕がいつも「ゼロに戻す」と自分に言い聞かせているのか。ひりついていたいからだ。ゼロに戻せば持ち物はなくなる。山の中を彷徨っている時、ナップザックの中に食糧やペットボトル、野営の道具や長期戦のための装備が揃っていれば、少しは安心することができる。持ち物が何もなければ、人はひりついてあがき始める。
 先の「闘争宣言」には、こんな文言も記した。
 <私達には今、何もありません。しかし、そのことが気持ちよいことだと感じています。私達を縛る出版界の常識もありません。ですから、史上最大の作戦もゲリラ戦も自由に戦うことができます。>
 何も持たず常にひりついているからこそ、大胆に攻められる。
 そんな僕も、50代半ばになってからは億劫になることもある。以前は1週間に2回は映画や舞台を観ていたが、「雨だからな」とか「今日は腰が痛くて嫌だな」と足が遠のく。
 しかし「まあいいか」と思った瞬間、崖の下へ転げ落ちる。
 年を取れば取るほど、忙しさのせいにしたり体調のせいにしたり、天候のせいにしてごまかす。要は面倒くさいだけなのだ。「まあいいか」という言葉は、絶対に呟きたくない。「まあいいか」を否定し続け、自分に打ち克ち、日々初心に帰るのだ。何年もかけて準備してきた大型プロジェクトがようやく完成し、大きな初版部数で本が出版される。発売と同時にプロモーションも稼働する。こうした熱狂の放出が終わると、僕はたまらない寂寥感に襲われる。
 一つの熱狂が終われば、自らゼロの地平に一人で舞い戻る。この地平から戦いを始め、まだ見ぬ熱狂の高みへと飛翔する。圧倒的結果をゼロに戻して新しい戦いに向かわなければ、より大きな成功や結果を絶対に得られないのである。


成功を捨てる、まあいいかを捨てる、そんな人生を歩んでいきたいなと思いました。

 755で僕に「頑張れば夢はかなうでしょうか」と質問してくる人がいる。こんな質問をされたところで、「かなうでしょうね」とでも答えるしかない。こういう言い方をしては申し訳ないが、「僕は夢に向かって生きていきます」という類の物言いには吐き気がする。
 現実は矛盾だらけだ。ピュアな夢なり野心だけで生きられるほど、この世はきれいごとで満ちあふれてはいない。矛盾によって板挟みに遭いながら苦しみ、七転八倒しながら、それでも匍匐前進する。
 他人には想像もつかないような圧倒的努力を積み重ねて初めて、結果は後から付いてくる。薄っぺらな野心や野望如きで這い上がれるほど、現実は甘くはない。「頑張れば夢はかなう」などと言っている時点で、すでにその人は戦わずして戦いに敗れている。
 僕には野心などはない。結果を出すことだけが僕にとっては善なのだ。薄っぺらな野心や野望など豚に食われろと思う。僕は山の麓の太った豚のような人生を送りたくない。「麓の太った豚になるな。頂上で凍え死ぬ狼になれ」。僕は毎日そう自分に言い聞かせながら、結果を出すため、矛盾に満ちあふれたこの世界で闘っているのだ。


生きるモットー=結果を出すこと、という方程式が非常にシンプルで、とても共感しました。

コンサル業に身を置く自分も常々意識している価値観だからこそ、共感が激しいのかもしれません。

 金だけじゃない、というのは自分への言い訳です。
 金が全てだということは僕が仕事を始める時の前提でした。
 それを無理にでも呑み込んで、僕はこの世界での戦いに飛び込んだのです。
 汚れているのは言わずもがなです。今も金が全てだと言い切っています。そう言い聞かせています。


これは前述した、売れるもの=正義と同じロジック。

 「往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」
 本書を通じ、この言葉の意味を僕なりに現代的に展開できたと自負している。一度この道を往くと決めたのならば、圧倒的努力によってとことんやり切る。妥協すると決めたからには、とことん妥協して圧倒的に辛酸を嘗める。
 人間はスーパーマンではない。哀しみながら、傷付きながら、自分自身と向かい合うしかないのだ。苦難に耐えることはあっても、人に安目を売らない。やせ我慢を通し切る。安目を売って楽をし始めたら、人生はバーゲンセールのように薄っぺらくなってしまう。

 この身から噴き上がった血液を使って、僕は自分の旗印を染め上げようと思う。
 血染めの旗を空高く掲げ、死へ向かって決然と歩んで行きたい。
 行く先は地獄かも知れない。それでもいい。君も僕と一緒に血染めの旗を空高く掲げてみないか。


妥協しない人生を歩んで行きましょう。

「戦略質問」を読んだ

かなり良書。特に自分のように事業会社出身でコンサル職に就かれている方など。

下記、特に覚えておきたいなと思う部分をメモ程度に残しておきます。

 昨今、個人的にすごく懸念していることが、戦略立案作業の過度な「工業化」である。この場合の工業化とは、戦略の立案に必要な作業が細かく分けられており、決められた手順通りやっていくと、戦略が立案できているようにするというものである。いわゆる方法論化である。


書籍やらネットやらで方法論が自由に述べられ、戦略の作り方がどんどんコモディティ化しているけれど、こうした手順は「何かを構築する」場合には適しているものの、「何かを発想する」には活かせない。

結果として、競争に勝つための発想よりも、社内の意見のとりまとめに近しいことになっていく。

また、サクッとネットで調べれば他社の動向が概ね把握できる分、戦略がどんどんと似通っていく中でどう差別化するか?がキモなのだけど、なんとなくとりまとめて、なんとなくやった感に陥らないよう・楽しないように留意したい。

 欧米では、戦略の実行方法を議論するようなときに、「WIIFM(ウィーフム)」という言葉がよくつかわれる。これはWhat’s in it for me? という分のそれぞれの単語の頭文字をとったものである。日本語でいえば「いったい自分にとって、それがなんの恩恵をもたらすの?」という感じである。
 戦略を現場に浸透させる場合に、個人個人の「WIIFM」を説明できることが重要だ。そのために、戦略そのものにそれを組み込んでおかなければならない。


これは知らない言葉だったので、メモ。

 「ゲームプラン」という言葉がある。ラグビーの試合で、監督が選手をグラウンドに送り出す際、「勝敗の責任は監督である私にある(選手の君たちに勝敗の責任はない)。君たちの責任は、ゲームプランをそのとおりに遂行することにある」ということがある。これからプレーする選手たちが、「君たちに勝敗の責任はない」といわれるのは、読者の皆さまは「どうして?」と戸惑われるかもしれない。これはこういうことである。
 ゲームプランは、相手にこうやって勝つという道筋をまとめたものだ。各プレイヤーが、ゲームプラン遂行のための自分の役割をきちんと果たしてくれさえすれば、論理的には100%勝てるというものである。
 だから「机上」では100%勝てるプランをつくる。それを選手たちに理解させ、実際の試合でもそのとおりできるようにするために練習をする。試合前に監督が選手を送り出すときにいう言葉は「ゲームプラン通りやってくれればいい。(もしゲームプラン通りやって)負ければそれは自分(監督)の責任」というものである。
 つまり、戦略の責任は監督、戦略通りやったかの責任は選手、という考え方になる。その試合に負けたとすれば、敗因は、ゲームプランが間違っていたのか、それともゲームプラン通りにできなかったからなのかを考える。
 「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」というように、ゲームプランという基準(仮説)があったからこそ、負けた場合の理由がわかり、それが知見としてチームのものになる。このあたり、スポーツとビジネス、共通点は多いと思う。
 戦略(ゲームプラン)が机上で100%勝てないとすれば、それを実行すれば、勝利は偶然頼みになってしまう。


戦略を揶揄するのには、机上の空論という言葉が用いられるけど、机上で100%近く勝てるという状態を土台にしたのち、それを正しく実行する。実行の最中に起こりうる予想外のことに対応しながら進めるというのが正しいプロセスなんだよな、と改めて自戒を込めて。

「戦略なんて作らなければよかった」「どうせ100%実行できなかったのだから、戦略なんて中途半端でもいい」とは決してならない。

 余談だが、かつて、筆者はIBMとは競合となっていたPxCコンサルティングに属していた。ところが、突如、そのIBMから買収を受けた。その際、両者でのビジョン策定のミーティングを目の当たりにした。そのとき日本のPwCコンサルティングの代表だった倉重英樹氏は、当時のグローバルサービス部門のトップ(のちのIBMの社長)に、「ビジョンではなく、我々にとってのこの統合の野心(アンビション)をまず語ろう」と提案した。ビジョンというとどこかおとなしい感じがする。野心となると、何かを成し遂げてみせようとの思いがそこに入る。米国人のそのトップはそれを快諾し、議論が進められた。
 その議論をもとにアンビションが整理された。おそらくあのとき、ビジョンからいきなり議論を始めたら、もともと相互に敵対意識をもっている組織同士、それも両社まったくカルチャーが違うので、結論のつかない空中戦になっただろう。
 「我々の野心はなんだろうか」と尋ねられたために、「IBM対PwC」が「『IBM+PwC』対『競合』」という図式になったのかなと思われる。さらには「IBM+PwC陣営と社会」という形で議論すれば、それがビジョンにつながったであろう。
 ついでに、この「あるべき姿」で私の好きな話がある。内田洋行にチェンジワーキングというワークスタイル改革のサービスがある。そのサービスを開発したリーダーの平山信彦氏とその一門は、あるべき姿ではなく「ありたき姿」という言葉をあえて使っている。「あるべき姿」と「ありたき姿」は違うか。あるべき姿というとどこか冷静な自問自答に聞こえる。一方、ありたき姿というと、「そうなりたい」という意志やパッションが感じられる。言霊というが、言葉の選び方というのは大事だと思う。


会社のことだけではなく、その人個人の人生をあえて尋ねてみるつもりで、経営トップの個人的な野心を聞くのも重要とのこと。確かに、同じことをしているパイセンが昔いたなと思いだしました。

会社の代表としての「公の自分」から降りて、どこに楽しみがあるのか聞いてみることは、あるべき姿を考える際のヒントになったりするだろうな。

ウォールーム(短期集中型の戦略立案MTG)を実施する際の4つのアングル

  • ズームアウト(Zoom Out):いつも考えているよりもずっと長いスパンで物事を考え直す
  • チェンジアングル(Change Angle):その会社でのタブーを、あえて打破して考えてみる。典型的なのは、ビジョンや経営理念の見直しであり、従来から当たり前とされてきたことについて、今の時代感を考慮してその継続可否や過不足の検討を行うことが多い
  • ディープダイブ(Deep Dive):グローバリゼーション、DX等々、重要性が極めて高いが、緊急性が低いために「いつかぜったいにやらねばならないと思ったまま放置されていること(本当に考えると膨大な工数や調整が必要)」について、グランドデザイン(概要)を短時間でさっさと描き切ってしまおうというもの。全く未知の領域(答えがないために、合議では解決しない問題)への対応もこれにあたる
  • インサイドアウト(Inside Out):経営者の頭もしくは心の中にある暗黙の野心やアイディアを引き出し、その言語化を図るものである。経営者の参加の部門リーダーが何をやりたいのかを整理するときなどにも活用される

  • どこかで使ってみたいと思って、とりあえずメモ。

     話は横道にそれるが、本書を書くきっかけは、私のかつてのボスであり恩師の影響であることは先に述べた。
     その人のところに何かの報告に行くと、いつもすんなりとは終わらない。いや始まらない。たとえば、筆者が「●●の件、報告に伺いました。ええとですね」と始めようとすると、まず「待て」といわれる。そして次に出るのが「その、これからしたいという報告だけど、何をもって報告が成功したと考えたかね」と質問される。最初はまったく意味不明だった。「だって報告に来ただけなんだから、『何をもって成功したか』と禅問答みたいなことをいわれても困るなあ」と思っていると、さらに「君にとって、よい報告と悪い報告って区別はある?」と聞かれる。勢いで「はい」と答えると、「じゃあ、それを考えてから報告してよ」となった。
     もちろん緊急案件であるなら、そんな禅問答じみたことにはならないが、本件は特に緊急案件ではなかった。まあ、今から考えると、深く考えない私への教育指導だったんだなあと思う。
     よく考えた末にカムバックした。「報告内容は3件あって、そのうち2件は、今度、社長が●●社に行くときに、この情報を知っていればその商談で有利に進められるというものです。そして1件は、僭越ながら社長が勘違いをされているのではないかということがあり、私の見解をぶつけてご意見を聞こうと思いました」というようなことを答えた。すると社長から「ふたつは私にこう動いてほしいということだね。それを私が勘違いをしているかもしれなくて、それにしたがっていると自分の仕事が困るということか。なるほど」とまとめが入った。私も「なるほどなあ、だから報告に行く必要があったわけだ」と本末転倒的なことを思った。
     それ以来、私は「何をもって病」にかかってしまった。だから、顧客の戦略立案をお手伝いするときも、「何をもって市場の分析が終わったといえるのか」「何をもって次回のステコミが大成功に終わったといえるのか」と考えるようになった。


    「何をもって成功か」を定義せずにMTGが進み、各々「とるべきアクション」をランダムに言い合うことは往々にして起こりえるなと。めちゃんこ刺さった。

    一見、馬鹿げたアイディアだと感じるものでない限り、それはアイディアではない – アインシュタイン


    知らない言葉だった。すばらしい。

     コンサルタント時代のスタッフたちと話をすると、「最近は戦略策定の仕事ばかりですよ。『チューケイ』ばかりつくってます」という話をよく聞く。チューケイとは中計。いわずもがな「中期経営計画」である。それなりの大企業を顧客にした、いわゆる経営計画策定のファシリテーション的な仕事なのかなと想像がつく。
     ただその話にはちょっとだけ違和感が残る。それは、彼らが「中計をまとめると、それがすなわち戦略をつくったことだと思っていないか」ということである。
     経営戦略と経営計画は、いろいろな局面で混同されがちである。たしかに、資料になった場合には、両方が別々というのはあまりなくて、経営戦略に重きを置き、その中に計画が入っていたり、経営計画に重きを置き、その背景として戦略を語っていた李と形態はいろいろある。
     戦略は、選択と集中を着眼点に、その企業の「勝ち方」あるいは「勝ち残り方」を考えるものである。一方で、計画は、戦略で決められたスキームに基づき、どの経営資源をどのような時間軸で割り当てていくのか、そして、その結果どのような時間軸で、どのような業績インパクトがもたらされるのかを整理するものといえる。つまり、論理的に戦略と計画は別物であり、資料の中での同居はあるが、検討は別というのが理想だと思う。
     そう考えると、戦略がないのに計画ができるはずない。と、いいたいところだが、そう単純にはいかない。というのは、投資家というステークホルダーが存在するためである。彼らが1にも2にも求めるものはコミットメントである。投資先の経営者はどのような業績をコミットしているのか。まずはそこである。したがって投資家の要求を満たすべく、現状とのギャップを埋めるための戦略をつくれ、ということになる。
     彼らからすれば、もちろんジャイキリは大歓迎。ただし、そこにすぐに数字がついてくればの話である。自らの資産を投資している彼らとしても、膨大な外部情報を収集し、今後の機会と脅威、さらには成長のポテンシャルを分析し、彼らなりの考えを、数字としてもっている。
     当然、経営計画策定の際には、彼らの期待値を、目標値として考慮する必要がある。極論からすれば、経営計画の概要は、経営戦略を策定する以前に決まってしまうということになる。経営計画のゴールと、現在のままでいた場合の見通しのギャップを分析し、それを解消するという目的で、経営戦略は検討される。これはこれで正しい道筋だと思う。が、なんだかやらされ感みたいなものを感じてワクワク感がない。
     投資家の期待を最初は一切考えずに、既存の経営計画策定サイクルの外で、自由に戦略を描いてみる。そんな機会でもなければ、ジャイキリは難しいのではないかと思う。


    これは現職でのコンサル経験よりも、スタートアップで投資家対応をしていた時のモヤモヤが浮き彫りに似合って、深く頷きました。

    投資家の圧がある環境は有難い反面、ちょっと投資家の顔色を窺いすぎたな…と思う経験もしたな。言い合える関係値ではなかった。

    あるとき筆者は、上司から「ポーターのFive Forces Modelを知っているか」と尋ねられた。勢いよく「はい(なんでも聞いてください)」と答えると、彼は「あのモデルのメッセージは何だと思うか?」と言う。
     すかさず筆者は、「競合との競争だけが競争ではなくて、そのほかに4つの競争があるということです」と答えた。すると、上司が俊二に私に興味をなくしたのが感じられた。
     あとでわかったことだが、彼によると、あのポーターのモデルの一番重要なところは、「今までの競争とはまったく違う競争を仕掛けてくる奴らこそが、最高に危険な連中」ということだった。つまり、今までの競争なら怖くない。顧客や調達先が知恵をつけてきての交渉も、怖いことは怖いが、まあ大丈夫。問題は「まったく違うスキルセットで挑んでくる『新規参入者』もしくは『代替品』」だ。なぜ彼らが怖いか。それは「まったく違うスキルセット」が「今までになかった発想」で挑んでくるからだ。
     「発想や感性が武器になる」。それ以来、新しいことをやるには、新しいタイプの人材が必要だということを肝に銘じた。


    当時の筆者と同様のレベルでしか認識できていなかった。もう一度読んでみようかな。

    確かに、ジャイキリを発想するの新たなタイプの人材をリクルーティングするのは手として間違いではないけれど、本当は新しい感性を持った人材がいるのに、戦略の目線を高く持って発想する場が与えられてなかったり、途中で潰されているケースも多々あるから、初手としては人材の能力が最大発揮できる場を作るためにどうするかを考えるべき。

    スキルワーカーとナレッジワーカーの違い

  • 仕事の種類:【スキルワーカー】手順が与えられ、それを実行すると成果の実現が保証される【ナレッジワーカー】期待成果が与えられ、やり方は本人に任せられる
  • 上司の役割:【スキルワーカー】マネージャー(管理者)【ナレッジワーカー】リーダー(先導者)
  • 人の動かし方:【スキルワーカー】権限(指示と命令)【ナレッジワーカー】リーダーシップ(納得と感動)
  • 求められるもの・与えられるもの:【スキルワーカー】社内価値(パワー)【ナレッジワーカー】市場価値(自由)
  • その通りだな~。トレンド的には右側にいくはずなのは薄々感じつつ、警鐘だけを鳴らすYouTube多すぎるよな~とか思いながら、メモ。

    上司の指示が不適切だから失敗しました、というのは典型的なスキルワーカーであって、手順を与えられなかったからできませんというのはダサい。

    とはいえ、多くの企業はナレッジワーカーを求めているけど、組織のつくりやマネジメントスタイルはスキルワーカーに寄っているものなんだよな。(と、現在進行形で実感)

     日本語には「改革」と「変革」なる言葉がある。英語表現にしてみると、前者は「リエンジニアリング」、後者は「トランスフォーメーション」とでも言い換えられよう。改革(リエンジニアリング)は「やり方を抜本的に変えること」、変革(トランスフォーメーション)は「やることを変える」というように区別している。
     改革についてはすぐにイメージが湧くと思う。でも、変革のほうは、どうだろうか。一言でいえといわれれば、筆者は「業態が変わること」と表現している。
     両社の大きな違いは、新しいスキルセットの必要度合いである。改革ならば今の状態でも実行できるが、変革となれば通常は業態が変わることになるわけで、まったく新しいスキルセットが必要になる。

    過去のIBMでは、当時43万人いた社員を、9万人まで減らした一方で、必要数である14万人を新たに採用したとのこと。

    一見、43万⇒23万の莫大なリストラに見えるものの、単純に人を減らしてコストカットしたわけではなく、スキルセット自体を入れ替えた。そのことで、メインフレーム主体のメーカーからサービス事業の会社となり、その後コンサルティングの会社となり、ソフトウェアの会社となり、今はクラウドであると。

    確かにこの業態の変化は、変革といえるし、言葉通りトランスフォーメーションだね。

     ある企業の顧問が中途採用者のスペックについて語った話だ。それは「2回以上転職した人」というものだった。読者の皆さまは、この意味がおわかりになるだろうか。筆者はまったく想像ができなかった。
     その意図は、「1回だけだと、前に勤めていた会社のやり方が正しいと信じて、それをここに適用させようとする。でも、前の会社のやり方が間違っていたら大変なことになる」というものだった。だから「2回転職した人だど、世の中、やり方はいろいろあるんだなと思って、この会社に来たときに、前職のふたつのやり方のうちどちらの方が適しているのか、とか、この会社にふさわしいやり方はもっと他にあるのではないかと考えるかもしれない」というものだそうだ。筆者はそれを人づてに聞いたのだが、なんと実践的かつ現実的なアイディアなのかとびっくりした。
     この会社は、通常だと一流企業というところに入れる高学歴の人材が敬遠してしまう不人気業界にいる。だが、その業界でも、「この会社だけは違う」と、オーナーのビジョンに人が殺到してきている。入社してくる人は、「前職の仕組みのほうがきちんと整備されている」と思い込んでいる。そしてそれも事実であることが多い。だから他意はなく、前職の仕組みを持ち込もうとする。だが、そのよいと信じ切っている仕組みが、ベストプラクティスというものではなく単に前職でやっていたというだけの仕組みであった場合、現場は混乱したという。だから、2回以上転職した人である。
     その顧問の方も、かつては誰もが知る超一流の戦略コンサルティングファームにいらした方だと聞くが、インドのジュガード顔負けの発想に驚いた。


    とってもその通りだな、と思った考え方。いつか自分で起業ないしは、そういったポジションに着いたときにも覚えておきたい。

     …では、DXが目的でなく手段とすれば、本来の目的はなんなのだろう。でもそうなると、決まって急に話が抽象的になり、苦し紛れに「競争優位性の確保」みたいに古臭く、そして漠然とした話になるのではないだろうか。
     DXと聞くと、筆者はその昔PwCコンサルティング(のちにIBMが買収し統合)に所属していた頃のペーパーレス化をどうしても連想してしまう。当時のCEOの倉重英樹氏(現シグマクシス・ホールディングス代表取締役会長)は、ペーパーレスを推進した。それは単なるペーパーレスを目指すというレベルではない。
     たとえば、ホワイトカラーの社員一人が所持している紙を重ねたとしよう。どのくらいの高さになるか。そのときの調べでは平均8メートルくらいになるということだった。それをなんと20センチまで圧縮した。ちなみに20センチとは社員ひとりにあてがわれた収納スペース。引き出しひとつ分だった。
     まだ若かった私はそれに反発した。「ペーパーレスは手段であり目的ではないです」と自信満々で反論すると、倉重氏は毅然とした態度で「ペーパーレスは目的だ」といわれた。その迫力に呑まれた私は「はい、わかりました」と情けない返事を思わずしてしまった。
     倉重氏の話は続いた。「プリンター(印刷物)は情報の共有化を阻害するが、壁プリンター(プロジェクター)は情報の共有化を促進する」と。そうなればもう反論とかいうレベルではない。
     結局、まさに究極のペーパーレスが完了した。するとどうだろうか。結論からいえば5年間で生産性が5倍に伸びた。人員の伸びは2倍、売上げは10倍。コンサルティング会社は設備をもたない。つまりこの結果は「人材の能力がついた」ということである。言い換えれば「組織にシナジーが生まれた」ということだろう。
     くわしい話は割愛させていただくが、人が必要とする情報は、紙として引き出しにしまってあったり、記憶として頭の中に眠っていたりしている。誰かから求められた場合、紙をそのまま渡すと、誤解や勘違いを生んでしまったり、その一部に機密情報が入っていたりする。だから、相手に合わせてサニタイズしたり、リファインさせたりするわけだが、それが面倒この上ない。だから、誰かに聞かれてもそれは「もってないということにする」という風潮がどうしてもあった。
     ところがどうだろう。データが電子化され「簡単に情報を加工して渡せる」ようになった瞬間に、凄まじい勢いで情報交換が発生し始めた。情報交換が始まると、「情報をもらえない人間」と「情報が集まる人間」が出てきて、両者の業績の差がみるみる広がっていく。「情報が集まる任天は、自分でも情報を提供する人間」だと感覚的にわかってくるにつれ、ナレッジポイント(情報を出す人間)に人気が集まった。次第に組織のシナジーが生まれてきた、というよりも雰囲気、もっといえば文化までも変わってきた。
     個人的には、それ以来、やれ目的だのやれ手段だの、うるさいことはいわないことにした。特にDXについては、目的か手段かを議論し始めると進めないと思う。デジタル化を進めれば、そこにデータが生まれ、データが情報に変わり、その延長線上で今までと違う発想が生まれやすくなってくる。
     逆にいえば、やってみなければ、どのような成果がどのように出てくるのかを明確に把握できない。ここで躊躇するのかチャレンジするのか、そこで勝者と敗者が生まれてくるような気がする。すでに成功したGAFAの例で正当化しても説得力がないが、彼らのもっている不思議な魅力や文化はこんなところにある気がする。


    とてつもなく象徴的な事例。これも覚えておくためのメモ。

     DXが過熱しすぎて、「DXに注力しない企業は、経営戦略のない会社」くらいの風評が起きてしまいそうな状況である。DXで何をやるかではなく、DXに着手したといえる状況をつくり出したいというように見える。こうした「DX着手中」の札があちこちに出されている中で、この質問を繰り出してみたい。
     「あなたの会社のDXは、何をもっていったん完了としますか?」
     その出口が明確にあるという企業は少ないような気がしてならない。なんとなくのブームの中で、デジタル化の投資を増やし、でもその発想は従来のIT化なかなか抜け出せない。
     一方で「あるべき姿を考え、現状とのギャップを把握し、課題を整理する。そのうちIT化で解決できるところを抽出し….」という従来型のIT化の発想では、IT化は終わっても、そこにあるものには、DXなる言葉が生まれてきた意義が見えない気がする。
     DXの出口はどこにあるのか。たとえば、RPAで経理業務の効率化をしたら、それはDXなのか。それとも、GAFAのように新しいビジネスモデルをつくらないとDXとはいえないのか。
     先に述べたとおり、デジタルには破壊的な可能性があることは誰もが認めるところである。ただ、それはどんな会社にも通用するというものではなかったり、デジタルよりも重要なことがあったりする企業もあるだろう。その一方で、ここまで企業のプロセスや商材のデジタル化が図られると、デジタル化を推進していない企業はデジタル化コミュニティと接続できなくなる危険性がある。
     その企業においてDXが既存のIT化の名称変更ではなく、本当の意味で始められているとすれば、それはきちんと出口が考えられていることだと思う。逆にいえば、出口を聞いてそれが答えられるとすれば、DXが始まっていると個人的には考えている。
     その出口が、先に述べた「RPAで経理業務の効率化」といった、ショボいといわれるようなものでも全然かまわないと思う。
     ここのところメディアでは「デジタル人材1000名を中途採用」のような、IT系企業の大量中途採用の記事をよく見かける。いったん店を開いてしまった企業の「DX出口問題特需」を期待してのものだと思うのは、筆者の考えすぎなのだろうか。


    現職で、DXを軸にしたコンサルに従事している中、出口設定があいまいなままとりあえず進みかけてしまうプロジェクトはゼロではないため、かなり刺さった問いだった。

    優れた思考を促すための10のセントラルクエスチョン

  • この戦略の成功により、社員はどのような恩恵を受けますか?
  • 現在の組織にある課題がすべて解決したとしましょう。あなたの会社は何が実現できているのでしょうか?
  • もし、あなたの会社が、今、突如この世から消えたら、誰が悲しむでしょうか?
  • あなたの会社や事業が、このままの状態だとした場合、その「X-Day(終焉)」はいつ頃来ますか?
  • あなたの会社は新しい戦略を策定されましたが、それにより、どこが弱くなりますか?
  • あなたの会社の社員は、自分のお子さんたちを、自分の会社に入れたいと思っているでしょうか?
  • あなたの会社でのかつての「南極体験」はなんですか?
  • あなたの会社が「世紀の大番狂わせ」をするとしたら、それはどんなものでしょうか?
  • あなたの会社の社員が他の会社に移られた場合、その方々は大活躍する予感がありますか?
  • 今回の戦略の実現を、既存の組織分掌を考えずにとにかく最適な人間に任せるとした場合、誰にやらせたいですか?

  • この10の問いの意図などが気になる方はぜひ本書をお手に取ってみてくださいませ。