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小説の一行目

せっかくのGWだから、ということでひとまず読書。

面白い本を見つけました。

昭和十年から平成十八年上半期までの、芥川賞・直木賞全受賞作品300作品の冒頭一行目がただただ書かれているというもの。

なんとなく琴線に触れたもの(いや、そこまではいかないけど、気になったもの)をメモしておきます。

青白い夜が波のように寄せてはかえしている。

「しゃっくりが止まら、ないんだ」

ぼくは時々、世界中の電話という電話は、みんな母親という女性たちのお膝の上かなんかにのっているのじゃないかと思うことがある。

真っ赤な嘘というけれど。

さびしさは鳴る。

その疑いは、男がサラダに手をつけ始めた時からすでに生じていた。

「異議なし」

積もるほどではないが、やみそうにない。

「まるで馬鹿馬だ。」

知らないひとに、どこか愉快な場所の話をするときには、いきなり扉を開けてその場所の中身をみせちゃだめだ。

眼を開くと、闇はいっそう深かった。

私って、いったいいつまで私のまんまなんだろう。

ビニールシートが風に舞う。

それぞれの一行目がどの作品のものかの記載はあり。

気になった方、作家が作品の一行目にかける熱量を感じたい方は是非に。

ボーイミーツガールの極端なもの

たまには本の感想でも。

(ちなみにボーイミーツガールといえば、TRFではなく、WORLD ORDER版が好き。)

まずは、タイトルに惹かれた。素晴らしくキャッチー。
思えば、山崎ナオコーラの作品を手にしたキッカケはタイトルだったように思う。(多分)

(「人のセックスを笑うな」「長い終わりが始まる」などなど、、、。)

気になった方はぜひ。ちなみに「ニキの屈辱」「男と点と線」がおすすめ。(タイトル買いダメやん!という)

そして、目次もキャッチー。これを見ただけで興味が湧く人もいる(?)はず。

第1話 処女のおばあさん
第2話 野球選手の妻になりたい
第3話 誰にでもかんむりがある
第4話 恋人は松田聖子
第5話 「さようなら」を言ったことがない
第6話 山と薔薇の日々
第7話 付き添いがいないとテレビに出られないアイドル
第8話 ガールミーツガール
第9話 絶対的な恋なんてない
エピローグ

タイトルからも分かるように、恋愛もの。ただ、ボーイミーツガールを謳っているわりに、いきなり老婆が主人公だったりと、正統派な恋愛小説っぽさはゼロ。それでも、この変化球満載な不思議さがこの人の面白さでもあったりして。それぞれの短編が最後につながった際には、一種のカタルシスを感じる。

また、一話ごとに出てくるサボテンがキャッチー。

各話ごとにカラー付きでサボテンの写真と解説のページを掲載。思えば表紙カバーもサボテン。なぜだろう。と少し疑問に思いつつ、最後には収束。

「多肉植物って、時間だと思うんです。」「時間が顔に出るのねえ。生まれ方より育ち方なのね」

小さいもの、大きいもの。多肉植物は世界の多様性を示してくれる。芸術家を志していたとき、ピエールは「マイノリティのために芸術はある」と感じていた。

全てはこれを言うためなのか。なんて贅沢。

ナオコーラと「her」

山崎ナオコーラさんが恋愛に対して、素敵なことを書いています。

…長く会わないでいた同世代の友人と会うとき、「パートナーシップ」についての話題がよく出る。「最近どう?彼氏は、いる?」「結婚の予定はないの?」等々。
私も聞くし、相手からも聞かれる。
結婚トークは面白いし、自分にその予定がなくても、盛り上がれる。
でも、たまに違和感を覚える。
久々に会う女友だちが、自分の彼氏の話をする。「彼は私にこういうことをしてくれる」「でも、こういうことをして欲しいのにしてくれないのー」「別れた方がいいのかな?」等々。
学生時代は「彼のこんなところが好き!」「先のことはわかんないけど、夢中なの!」と言い合っていたのに、結婚を意識する年代になると、恋愛観が変わるのか?
瞬間における人との心の触れ合いを重ねていくことを恋愛だと思ってきたはずなのに、いつの間にか自分の人生にメリットのある関係を築いていくことが恋愛であるかのように会話をしてしまっている。
私はやっぱり、立ち戻って、恋愛を捉えたい。
恋愛においては、「相手が自分に何をしてくれるか」「大事にしてもらえるか」ということよりも、「自分がどうするのか」「自分は相手を大好きだ!」と考えることの方が重要だと、私はこれからも、考えたい。
だから、大好きな人に出会ったときに「出会えただけで十分だ」と私が思う可能性がある。結婚しない人生も私にはあるだろう。
ただ私は、自分の結婚式で蝶ネクタイを締め自分で司会を務めたい、という野望を持っているので、それができなかったら、少し残念だ。

相手が何がしてくるかではなく、自分がどう思うか、相手をどんなに好きか。

まさしくごもっともだと思いました。自分の想いがいくら強かろうと、相手にそれを押し付けていいわけでもなく。

この言葉は、映画「her」にも通ずるものがあります。

この作品、ご存知ですかね。
「ザ・マスター」で難しい役どころを演じきったホアキン・フェニックスが、彩り豊かな色調の中でいい演技をしていたあの作品です。


スカーレット・ヨハンソンの声の良さの方がfeatureされていて笑いましたが。
(個人的にはエイミー・アダムスの地味目な役どころのマッチ具合もすごかったと思う)

アバウト・タイムが日本で上映する前に、ちょっと話題になっていました。
(どちらも渋谷のシネマライズはしっかり上映していたな。やっぱあそこはすごい。センスがいい)

ストーリーは以下を参照。

近未来のロサンゼルスで、セオドア(ホアキン・フェニックス)は相手に代わって思いのたけを手紙にしたためる代筆ライターをしていた。長きにわたり共に生活してきた妻キャサリン(ルーニー・マーラ)と別れ、悲嘆に暮れていた彼はある日、人工知能型OSサマンサ(スカーレット・ヨハンソン)と出会う。次第にセオドアは声だけで実態のない彼女の魅力のとりこになり……。

OSと人間の恋。今でいうiPhoneのSiriとの恋。
実態のないものとの近未来的な恋といった点で、とても注目されていました。
(その分、埋めることができない肉体的・身体的な部分を映し出す描写が多めでしたね。)

この映画にも、上記の文章を物語るシーンがあります。それも結構重要なシーン。

主人公のセオドアは、OSのサマンサに恋をするんですが、サマンサが内臓された機器はセオドアのみが持っているわけではなく、アーリーアダプターを中心に広く普及し始めているんですね。

セオドアはそのことに気づいていなかったんです。
自分とサマンサという一対一の純粋な関係に恋をしていた。

外に出て、街を見渡すと、みんなが同じ機器を持ち、みんながサマンサと話している。

主人公がその状況に気がついて狼狽するシーンがあります。

セオドアは自分の一途な想いに対するサマンサの状況に憤慨するわけです。
ユーザーであればみんなにいい顔をするのか。と。

ただ、サマンサとしてはどうすることもできない。そういったプログラムなので。

最終的には、、、、、、、(まぁここは観ていただこうと思います)
(暖色の使い方と、ロサンゼルスのやわらかいネオンが素敵なので、注目してみてください。)

この作品も、恋愛は相手がしてくれたことに焦点をあてすぎるとうまくいかず、恋愛は始まった時と同じ速度で走り続けられないということを示していたんですよね。

求めあうフェーズは勿論あれど、それは長く続かない。
(いや、続く関係もあるのかもしれないですね。経験したことないだけで)

じゃあ、どうすればいいの?となると、相手から何をしてもらうかではなく、自分が何をしてあげたいかにフォーカスする。

ずっとそう思える相手と恋愛ができれば、これほど幸せなことはないでしょうね。

そんなことを書いていたら、「ニキの屈辱」を思い出しました。

はじめも、おわりも、ナオコーラ。