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「断片的なものの社会学」を読みました。

「断片的なものの社会学」を読みました。

異性同士の結婚といった世間一般の”幸せ”、通俗的な当たり前を押し付けることなんぞあってはならんと認識しつつ、ヤクザ・風俗・ホームレスといった、いわゆる社会的マイノリティの領域にずかずかと踏み込み、一方的に都合よく理解したと思うのも野暮なはず。

とはいえ、個人の判断を重んじるあまり、相手の領域に立ち入らずに見て見ぬふりをしてしまうのも、それは結局自分が傷つきたくないでしょ?それって勝手すぎないか?と。

じゃあどうすればええねん!という八方塞がりな問いに対し、筆者は「どうすればよいかなんてわからないよ」と正直に言うんですね(社会学者です)。

思わず、おおってなりました。(押し付けがなく、目線を合わせられて好きです)

また、断片的に綴られるインタビュー・語られるエピソードに読み応えがあることに加え、他人ではあれ出会う人それぞれに温かみを持って寄り添い、自身の立場関係なしにフラットに見つめる筆者に、たまらず好感を持ってしまいますね。

答えなんてないけれど、全て割り切れるわけもない。だけど断片的な日常を並べてみたら、なにかが結びついて、わかってくるものがあるのでは?といったどこか実験的な意味合いもあるため、だから何やねん!と思ってしまう人にはオススメしません。

個人的には結構面白かったので、下記に気になった一節をご紹介します。

…ほんとうはみんな、男も女もかぎらず、大阪のおばちゃんたちのように、電車のなかでも、路上でも、店先でも、学校でも、気軽に話しかけて、気軽に植木鉢を分け合えばいいのに、と思う。でも、私たちは、なにか目に見えないものにいつも怯えて、不安がって、恐怖を感じている。差別や暴力の大きな部分は、そういう不安や恐怖から生まれてくるのだと思う。別に、大阪のおばちゃんが差別しない、と言っているわけではない。まったくそうではなく(部落や在日に対する差別は大阪でも強い)、ただ私はどこかで、通りすがりの人と植木鉢について話を交わすことが、あるいは植木鉢そのものを交換することが、なにかとても重要なことのように思えるのだ。

人に話しかける、ということは、それ自体はたいしたことでもないようにみえるが、やってみるまではなかなかできそうにもない。やってみたら実は、それはとても簡単だ。
だが、できれば、なにかかわいらしいもの、あるいはおいしいものが間に入ったほうがよい。私が冗談半分に「寄せ鍋理論」と名付けている理論がある。たとえば、ひとりの友人に、いまから私と話をしましょう、そのための時間をください、と言ったら、不安になって警戒されるだろう。でも、いまからおいしい鍋を食べませんか、と言えば、ああいいですね、行きましょう、ということになるだろう。

人と話をしたいなと思ったら、話をしましょうとお願いせずに、何か別のことを誘ったほうがよいのだ。考えてみれば奇妙なことである。けっきょく何が目的で鍋を囲むかというと、お互いに話をするためである。だったら話だけすればよいではないか。

しかし、人は、お互いの存在をむき出しにすることが、ほんとうに苦手だ。私たちは、相手の目を見たくないし、自分の目も見られたくない。
私たちは、お互いに目を見ずにすますために、私たちの間に小さな鍋を置いて、そこを見るのである。鍋が間にあるから、私たちは鍋だけを見ていればよく、お互いの目を見ずにすんでいる。鍋がなかったら、お互いに目を見るしかなくなってしまうだろう。私たちはお互いの目を見てしまうと、もう喋ることができなくなって、沈黙するしかない。そして怯えや緊張は、沈黙から生まれるのだ。…

私たちにはいつも、どこに行っても居場所がない。だから、いつも今いるここを出てどこかへ行きたい。

居場所、というものについては、さんざん語り尽くされ、言い古されているが、それはやはり何度でも立ち戻って考えてしまうようなものである。居場所が問題になるときは、かならずそれが失われたか、手に入れられないかのどちらかのときで、だから居場所はつねにかならず、否定的なかたちでしか存在しない。しかるべき居場所にいるときには、居場所という問題は思い浮かべられさえしない。居場所が問題となるときは、必ず、それが「ない」ときに限られる。

マイノリティと呼ばれるひとたち、「当事者」と呼ばれるひとたちはなおさらだが、私たちマジョリティやいわゆる「普通の市民」たちもまた、基本的にはみんな、居場所がないと思いながら暮らしている。仕事や家族や人間関係などで頭がいっぱいのときだけ、雑事にかまけて忙しいときだけ、私たちは、居場所の問題を忘れていられる。私たちにとって、居場所というのは、ないか、一時的にその問題について忘れているだけかの、どちらかだ。
私たちは、どこにいても、誰といても、居場所がない。たとえ家族や恋人といっしょにいても、そうだ。だから私たちは、どこかへ行きたいといつも思っている。そして、実際にたくさんの人びとが、外の世界へ一歩を踏み出していく。

…とにかく、そういうわけで、幸せのイメージというものは、私たちを縛る鎖のようになるときがある。同性愛のひと、シングルのひと、子どもができないひとなど、家族や結婚に関してだけでもこれだけいろいろな生き方がある。それだけではなく、働き方や趣味のありかたなど、生きていくうえで私たちがしているありとあらゆることについて、なにか「良いもの」と「良くないもの」が決められ、区別されている。

ここから、考え方がいくつかに分かれる。おそらく、そのなかでもっとも正しいのは、極端にいえば「良い」と思うことをやめてしまうこと、あるいは、そこまでいかなくても、それが「一般的に良いものである」という語り方をやめてしまうことだろう。

ある人が良いと思っていることが、また別のある人びとにとっては暴力として働いてしまうのはなぜかというと、それが語られるとき、徹底的に個人的な、「<私は>これが良いと思う」という語り方ではなく、「それは良いものだ。なぜなら、それは<一般的に>良いとされているからだ」という語り方になっているからだ。

完全に個人的な、私だけの「良いもの」は、誰を傷つけることもない。そこにはもとから私以外の存在が一切含まれていないので、誰も排除することもない。しかし「一般的に良いとされているもの」は、そこに含まれる人びとと、そこに含まれていない人びとの区別を、自動的につくり出してしまう。
「私は、この色の石が好きだ」という語りは、そこに誰も含まれていないから、誰のことも排除しない。しかし、「この色の石を持っているひとは、幸せだ」という語りは、その石を持っているひとと、持っていないひととの区別を生み出す。つまりここには、幸せなひとと、不幸せなひとが現れてしまう。

したがって、まず私たちがすべきことは、良いものについてのすべての語りを、「私は」という主語から始めるということになる。あるいは、なにかの色の石を持っているかどうか、ということを、幸せかどうか、ということとを、切り離して考えること。…

…要するに、良いものと悪いものとを分ける規範を、すべて捨てる、ということだ。規範というものは、かならずそこから排除される人びとを生み出してしまうからである。

しかし同時に、私たちの小さな、断片的な人生の、ささやかな幸せというものは、そうした規範、あるいは「良いもの」でできている。私たちには、この小さな良いものをすべて手放すことは、とてもとても難しい。…

…ここで、ひとつの考え方がある。それは、「さまざまな価値観を尊重しましょう」というものだ。だから、おしゃれをしたりメークをしたりすること自体が悪いことなのではなくて、それを他者から、あるいは社会全体から強制されてしまうことを否定しましょう、ということである。たとえば無神経な上司から外見をからかわれたことを気にしておしゃれをする、ということは、いかにも屈辱的なことなのだが、自分なりの個性的な価値観と信念に基づいておしゃれをすることは、何も悪いことではない、ということになる。
だが、私はここから本当にわからなくなる。私たちは「実際に」どれくらい個性的であるだろうか。私たちは本当に、社会的に共有された規範の暴力をすべてはねのけることができるほどのしっかりした「自分」というものを持っているだろうか。

むしろ私たちは、それほど個性的な服を着ることよりも、普通にきれいでかわいい服を着て、普通にきれいでかわいいねとみんなから言われたいのではないだろうか。個性的である、ということは、孤独なことだ。私たちはその孤独に耐えることができるだろうか。
そもそも幸せというものは、もっとありきたりな、つまらないものなのではないだろうか。…

…自分のなかには何が入っているのだろう、と思ってのぞきこんでみても、自分のなかには何も、たいしたものは入っていない。ただそこには、いままでの人生でかきあつめてきた断片的ながらくたが、それぞれつながりも必然性も、あるいは意味さえもなく、静かに転がっているだけだ。

私自身の性格や他人との接し方も、私のなかにもとからあったものではない。それは、身の回りのいろいろな人びとの癖や喋り方を模倣して組み合わせたものにすぎない。中学校のときのFくん、高校のときのYくんやNくん、そして誰よりも、大学で出会ったGくんやDちゃんの、独特のリズムやテンポ、話題やネタ、表情や抑揚を、なかば無意識のうちに真似をし、その「文法」を体得し、自分なりに編集して、やがて自分のなかに沈殿して定着していったものが、結果としていまの私になっている。

誰でも同じだと思うが、私の人格もまた、他人のいくつかの人格の模倣から合成されたものなのである。

ここには、「かけがえのないもの」や、「世界でたったひとつのもの」など、どこにもない。ただ、ほんとうに小さな欠片のような断片的なものたちが、ただ脈絡もなく置いてあるだけなのである。

これもまた多くのひとが同じことを思っているだろうが、かけがえのない自分とか、そういうきれいごとを聞いたときに反射的に嫌悪感を抱いてしまうのは、そもそも自分自身というものが、ほんとうにくだらない、たいしたことのない、何も特別な価値などないようなものであることを、これまでの人生のなかで嫌というほど思い知っているからかもしれない。…

…ただ、私たちの人生がくだらないからこそ、できることがある。
ずっと前に、ネットで見かけた短い文章に感嘆したことがある。こう問いかける書き込みがあった。カネより大事なものはない。あれば教えてほしい。これに対し、こう答えたものがいた。カネより大事なものがないんだったら、それで何も買えないだろ。

おお、これが「論破」というものか、と思った。

私たちの人生が、もし何よりも大切な、かけがえのないものであるならば、それを捨てることができなくなる。人生を捨てるものがひとりもいない世界というものは、どのような世界かというと、それは、学校を卒業したものが全員、安定した地位をめざして公務員試験を受ける世界である。公務員の方がたにはとても失礼な言い草であるが。

…「良い社会」というものを測る基準はたくさんあるだろうが、そのうちのひとつに、「文化生産が盛んな社会」というものがあることは、間違いないだろう。音楽、文学、映画、マンガ、いろいろなジャンルで、すさまじい作品を産出する「天才」が多い社会は、それが少ない社会よりも、良い社会に違いない。

さて、「天才」がたくさん生まれる社会とは、どのような社会だろうか。それは、自らの人生を差し出すものがとてつもなく多い社会である。

ひとりの手塚治虫は、何百万人もの、安定した確実な道を捨ててマンガの世界に自分の人生を捧げるものがいて、はじめて生まれるのである。

だから、人生を捨ててなにかに賭けるものが多ければ多いほど、そのなかから「天才」が生まれる確率は高くなる。

もちろん、だからといって、そこで敗退していく数百万人の人生に、なにか意味があると言いたいわけではない。負けてしまったら何も手に入らないのが人生というものである。だから、もし私たちが自分の人生を捨てて、それでも何ものにもなれなかったときに、それはたったひとりの「天才」を生み出すために必要だったんだよと言われても、とうてい理解や納得はできないだろう。

だが、いつも私の頭の片隅にあるのは、私たちの無意味な人生が、自分にはまったく知りえないどこか遠い、高いところで、誰かにとって意味があるのかもしれない、ということだ。

いま、世界から、どんどん寛容さや多様性が失われています。私たちの社会も、ますます排他的に、狭量に、息苦しいものになっています。この社会は、失敗や、不幸や、ひとと違うことを許さない社会です。私たちは失敗することもできませんし、不幸でいることも許されません。いつも前向きに、自分ひとりの力で、誰にも頼らずに生きていくことを迫られています。

私たちは、無理強いされたわずかな選択肢から何かを選んだというだけで、自分でそれを選んだのだから自分で責任を取りなさい、と言われます。これはとてもしんどい社会だと思います。

こういうときにたとえば、仲のよい友だちの存在は、とても助けになります。でもいまは、友だちをつくるのがとても難しくなりました。不思議なことに、この社会では、ひとを尊重するということと、ひとと距離を置くということが、一緒になっています。だれか他のひとを大切にしようと思ったときに、私たちはまず何をするかというと、そっとしておく、ほっておく、距離を取る、ということをしてしまいます。

このことは、とても奇妙なことです。ひとを理解することも、自分が理解されることもあきらめる、ということが、お互いを尊重することであるかのようにいわれているのです。

でも、たしかに一方で、ひとを安易に理解しようとすることは、ひとのなかに土足で踏み込むようなことでもあります。

そもそも、私たちは、本来的にとても孤独な存在です。言葉にすると当たり前すぎるのですが、それでも私にとっては小さいころからの大きな謎なのですが、私たちは、これだけ多くのひとにかこまれて暮らしているのに、脳のなかでは誰もがひとりきりなのです。

ひとつは、私たちは生まれつきとても孤独だということ。もうひとつは、だからこそもうすこし面と向かって話をしてもよいのではないか、ということ。こんなことをゆっくり考えているうちに、この本ができました。

とらえどころもなく、はっきりとした答えもない、あやふやな本ですが、お手にとっていただければ幸いです。

「翻訳できない世界のことば」

後輩が紹介してくれた一冊。

その名の通り、翻訳できない現地のことばを紹介。(日本語では木漏れ日なども掲載。)

もう色々と心地よい一冊なんですが、中でも素敵やな。と思った言葉を下記にいくつか。

COMMUOVERE(コンムオーベレ – イタリア語)
・・・涙ぐむような物語に触れた時、感動して、胸が熱くなる。

GEZELLIG(ヘゼリヒ – オランダ語)
・・・単に居心地よいだけでなくて、ポジティブであたたかい感情。物理的に快いという以上の「心」が快い感覚。たとえば、愛する人とともに時をすごすような。

KILIG(キリグ – タガログ語)
・・・おなかの中に蝶が舞っている気分。たいてい、ロマンチックなことや、素敵なことが起きたときに感じる。

PISAN ZAPRA(ピザンザプラ – マレー語)
・・・バナナを食べるときの所要時間。

UBUNTU(ウブントゥ – ズールー語)
・・・本来は、「あなたの中に私は私の価値を見出し、私の中にあなたはあなたの価値を見出す」という意味で、「人のやさしさ」を表す。

TREPVERTER(トレップヴェルテル – イディッシュ語)
・・・直訳すると「言葉の階段」。あとになって思い浮かんだ、当意即妙な言葉の返し方。

MAMIHLAPINATAPAI(マミラピンアタパイ – ヤガン語)
・・・同じことを望んだり考えたりしている2人の間で、何も言わずにお互い了解していること。(2人とも、言葉にしたいと思っていない)

RESFEBER(レースフェーベル – スウェーデン語)
・・・旅に出る直前、不安と期待が入り混じって、絶え間なく胸がドキドキすること。

YA’ABURNEE(ヤーアブルニー- アラビア語)
・・・直訳すると「あなたが私を葬る」。その人なしでは生きられないから、その人の前で死んでしまいたい、という美しく暗い望み。

PORONKUSEMA(ポロンクセマ – フィンランド語)
・・・トナカイが休憩なしで、疲れず移動できる距離。

NUNCHI(ヌンチ – 韓国語)
・・・他人の気持ちを密かに汲み取る、こまやかな心遣い。

AKIHI(アキヒ – ハワイ語)
・・・だれかに道を教えてもらい、歩き始めた途端、教わったばかりの方向を忘れた時、「AKIHIになった」と言う。

DRACHENFUTTER(ドラッヘンフッター – ドイツ語)
・・・直訳すると「龍のえさ」。夫が、悪い振る舞いを妻に許してもらうために贈るプレゼント。

IKTSUARPOK(イクトゥアルポク – イヌイット語)
・・・誰か来ているのではないかと期待して、何度も何度も外に出て見てみること。

FORELSKET(フォレルスケット – ノルウェー語)
・・・語れないほど幸福な恋に落ちている。

NAZ(ナーズ – ウルドゥー語)
・・・誰かに無条件に愛されることによって生まれてくる、自信と心の安定。

CAFUNE(カフネ – ブラジル・ポルトガル語)
・・・愛する人の髪にそっと指を通す仕草。

こういう本を贈り物にできる人は、素敵だと思う。(ものすごく)

ことばが好きな自分にはたまらない一冊でした。

みんな、どんなふうに働いて生きてゆくの?

働き方研究家の西村佳哲さんの著書。奈良の図書館で開催された「自分の仕事」について考えるフォーラム。そこで行われた8名のゲストとの対談を掲載。

西村さんの本でいうと、下記文章が印象的。

ところで、私たちが会社から仕事を買っているとしたら、そこで支払っている対価はなんだろう。それは「時間」である。そして時間とは、私たちの「いのち」そのものである。

実は自分はこの言葉がキッカケに、大学で「仕事論」を学び始めたということもあったり。確かこの本

今回紹介する本作でも、思わずハッとさせられる一節が多い。ので、記録的にご紹介。

1.誰に向いて働くんだっけ?というお話

…売上げを何十億と増やしていくより、うちのような規模のところが増えたらいいと思っています。そうしたらマーケットが広がりますよね。世界のフェアトレード業界の趨勢は、最近は拡大志向です。普通の企業のように力をつけようとしている。でも大きくなると組織は腐敗していく。最初の目的がおかしくなって、生き残ることが目的のようになってしまう。私たちは「生産者が北極星だ」ってよく言うんです。判断に迷った時は、常に生産者を見ましょうって。彼らにとって良いか悪いか。それも目の前のことではなく、5年後、10年後にどうだろうって。…

2.まずは3年続けろ?というお話

…子どもの頃から本が大好きで、就職の面接でも「編集者になりたい」と言っていて。「君、編集の仕事をわかってんの?」って副社長に質問されて、「いやわかってないです」と答えたのを憶えている。本当にわかってなかった。
 でも始めてみたらめちゃめちゃ楽しい。文章を読んで、その書き手に共感して、一緒に本を作りたいと手紙を書いて、意気投合する瞬間があって。そして、最初の打合せの時には想像もできなかったものが形になることが結構ある。働きながら、「僕は日本一楽しい仕事をしている!」っていう思いが、いきなりガーンときていました。
 人が3年かかると言うところを1年でと、土日も返上して仕事に燃えていた。けどある日、「最近旅してない」って気づいたんです。
 僕は学生の頃から旅が好きで、就職の直前も一ヶ月くらい中国を放浪していた。会社に入った後もその旅から戻った勢いのまま働いて、何冊も本をつくって、いくつかは話題になったり売れてもいたけれど、自分がどんどん社会化されてゆく感覚が一方にあって。
 売れるとか売れないとかそういうことより、本気で「面白い」と思うことや、内側から湧き出てくるものを追求しなけりゃ。無休で働いてはいるけど動いてないな・・・と思った瞬間、辞めたんです。辞表には「世界進出のため」って書いて。…

3.お金と関係性のお話

…言い訳としては、「お金が要る」とか「行き先はどうするんだ」とか。考えるといろいろ出てくるので、「もうちょい先だな」って。でも要するに腹が決まってなかったんですよ。
 次の建国記念日にしようって。お金はなかったけど、ないから出来る旅もあるなって考え方が変わって。お金ない方が僕らしい旅ができるんじゃないかなと。
 ヤップ島以来、お金のことを考えていたんです。お金ってけっこう関係性を切るんじゃないかって。お金があれば、誰に会わなくても、口もきかなくても旅が出来る。払えば泊めてもらえるし、電車にもバスにも乗れるし、別に何のコミュニケーションも要らないじゃないですか。僕は人間弱いですから、お金があったらそういう楽な方を選ぶんじゃないか。逆にお金がなかったら、いちいち人と関わることになる。それは今の自分に必要なことでもあるなと思って。実際なかった。部屋の敷金が返ってきて、それが所持金のほとんどでした。…

4.首都圏からは見えない東京のお話

…日々農産物を収穫しながら、「つくった米を盛る器も自分で作らないと」って、登り窯をこしらえて焼いてたり。最近は富山大学の研究室と一緒に山の水を活かした小水力発電の実験もしていて、電気自動車を走らせていたり。彼らを見ていると、限界どころか希望しか見えなかった。
 奥さんと話していた時、彼女にボソッと「東京こそが限界だと思うのよね」って言われて。言い返せないというか、グサッと刺さって。
 地域活性化ってよく言うけれど、多くの場合、どうやって経済を回すかという話になりがちですよね。でもお金が回って、人が多くなって、ヒト・モノ・カネが揃えば活性化するなら、そのモデルは東京になります。その東京で本当にみんな幸せに生きているのかっていうと、いや、いると思いますけど、東京で豊かに暮らせている人たちは結構お金のある人たちだと思う。
…今、水俣は国内有数の環境モデル都市で、世界的にも有名で。公害問題が深刻化した当時は、住んでいた人たちも「水俣」っていうアイデンティティを消したくて、街から出れる人たちはみんな余所へ移ってしまったり、人々の多くが地域と向かい合っていなかった。けど今は”環境”というキーワードで、新しいつながりが生まれている。無農薬のお茶をつくっているとか、無添加の海産物をつくっているとか、そういう人たちが集まっていて。会う人会う人が、みんな輝きを放っていたんです。
 希望を見ようとした瞬間に、絶望さえ希望に変わって、一人の人間が変わって、それが周囲も変えていって。そんな姿を見ていると、限界っていうのは物理的な条件のことじゃあないなって。…
…僕は今まで、「あれがあったら幸せになれるのに」とか「お金があったらいい暮らしができる」とか、そういう考え方を繰り返してきた感じがする。肩書きや職業のようなものも含めて。
 でも彼らは、なにかによって幸せになろうとしてないんですよね。この世界で生きていくって、腹が決まっているんですよ。そこで生きてゆかなければならない。ということを受け入れて、その上でいかに良い人生を送るかっていう覚悟が感じられて。僕が訪ねた地域には、そういう人が多かった。彼らはないものねだりをしていない。そして誰によって「限界」と決められることもなく、その状況の中で、思い思いに生きている。それでいいんじゃないかって。…

5.教育ってどうあるべきだっけ?というお話

…そして経済軸の判断は、どんどんプロセスを省略する方へいく。効率のいい方へ仕事の中味がショートカットされていって、その極端な形が「お金をお金で買う」ビジネスです。会社買うたりね。汗をかく必要がない。
 それは人間を、それも若者や子どもを損なっていく致命的な考え方だと思うんですよ。「こういう勉強して何になんねん?」みたいなことを言う。消費と同じ要領で、教育にコストパフォーマンスを求めている。でも本来、学ぶということは、自分が何をわかっていないかもわかっていないわけです。その初めの時点で「何になんねん?」なんて問いを立てていたら、何にもならへんだろうし、誰にも学ぶ必要ないじゃないですか。…

その他にも、なるほど。と思わせられることが多い一冊。

今の仕事をどうしようか。と考えている自分には割と刺さったな。