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「たった一人の熱狂」を読んだ

自己啓発本の類って、読んでるだけで何かやってる感を醸成するあの独特な雰囲気が苦手で、普段は手を付けない派なんですが、これはそんなこと言ってられないくらい良かった。まさに劇薬。

というか、別に自己啓発本ではないのか。エッセイが近いかも?です。

幻冬舎創業者の見城さんが755(懐かしい)で寄せられた質問に真剣に回答した、その回答集。という立ち位置。

以下、特に刺さった一節をメモとして。

 僕は若い頃から「これは売れなかったがいい本だ」という言い訳は一切やめようと決めてきた。株で儲けろ、という本が売れようと、ヘアヌード写真集が売れようと、セックスの指南本が売れようと、ベストセラーは大衆の中でくすぶる欲望の奥深くに突き刺さっている。大衆の欲望を鋭敏にとらえた本だからこそ、多くの読者に支持されて沢山の部数が売れるのだ。
 自分の中に何かが突き刺さらなければ、人は身銭を切って本なんて買わない。売れる本は、マジョリティの大衆が抱える無意識の欲求や欲望をつかみ取っている。売れる本は良い本であり、売れる本は無条件で尊敬すべきなのだ。


「売れるものはいいものなのである」という原理原則に目を背けて、言い訳したくなるタイミングがこれまで数知れずあったなぁ…と反省の思いです。

 「あなたの一番のセールスポイントは何ですか」と問われれば、僕は「自己嫌悪です」と答える。自分が駄目になっていることを自覚できない人間は駄目だと思っている。…
 …僕はよく755で、若い人にこう言っていた。「自己検証、自己嫌悪、自己否定。この三つがない人間には進歩がない」。このうち一番易しいのは自己検証だ。「今まで自分はこう思い込んでいたけれど、もしかしたらそれは思い違いだったかもしれない」。自分の思考や行動を客観的に検証し、修正していく。これなら今日から誰にでもできる。
 僕は自己嫌悪を突き詰めるうちに自己否定まで自分を追い込む。…
 …「文芸元年」と銘打った94年の幻冬舎立ち上げから20年以上が過ぎ、「見城さんは十分、地位も名誉もあるのだから、そんなに自分を追い込まなくても良いのではないか」と言う人もいる。冗談も休み休み言って欲しい。現在に安住し、自己検証と自己嫌悪と自己否定を忘れるようなことがあれば、もはや僕には生きている価値はない。
 「自分はまたしても駄目な人間になってしまった」と自覚するからこそ、人は永遠に戦い、永遠に成長し続けられるのだ。


セールスポイントが自己嫌悪なんて、どんだけ死線をくぐったら言えるようになるだろう。いやくぐり数の有無というよりいかに常時謙虚なスタンスになれるかということが重要なんだろうな。

同じような成功を経験したと仮定したとして、あえて成功した自分を捨て、新たに自分を低く設定できるだろうか。

 毛沢東の革命の三原則は、①若いこと②貧しいこと③無名であること。僕はこれに④無知であることを加えて、「革命の四原則」と呼んでいる。
 無知だからこそ、とんでもない発想が生まれるのだ。


これはまさしく自分だなと思いつつ、革命のような何某を起こして死ぬ人生でありたいなと。獅子奮迅の思いです。

 755では「社内の嫉妬が気になる」という質問が寄せられることがある。妬み、嫉み、僻みの三拍子が揃った人間は、どこの組織にもいるものだ。社内で業績を上げて目立つ人がいると、妬みに駆られた卑劣な人間は「スタンドプレイをしやがって。生意気な奴だ」と陰で足を引っ張る。
 大した差でもないのに注目されるから、人から焼きもちを焼かれて嫉妬されるのだ。有無を言わせない圧倒的な差をつければ「あいつの仕事には誰もかなわない」と周囲の目はあきらめに変わる。…
 …圧倒的成果を出せば、社内で僕の足を引っ張る妬みの輩などいなくなる。なにしろ角川書店の売上年間ベスト10のうち、僕が担当した本が毎年、7割は占めていたのだ。会社のためにずば抜けて利益を上げていることは誰もが認める客観的事実だった。
 だから1人5万円はかかる名店「京味」で何度会食しようが、月400万円近く経費を使おうが、誰も文句は言わなかった。文句は言わせなかった。…
 …ただし、圧倒的結果を出したからといって決しておごってはいけない。僕はこれまでたくさんの成功した起業家と付き合ってきた。彼らは一様に、成功したからといって調子に乗ることはない。おごる者は、知らず知らずのうちに見えない敵を作る。
 いい気になっておごり高ぶる傲慢な人間は、必ず堕ちていく。トップランナーであり続ける成功者ほど、みな謙虚だ。褒められても「いやいや、たいしたことはないですから」と静かに笑い、自分の話は早々に切り上げる。
 傲慢な人間から仲間は離れ、謙虚な人の周りには協力者が集まる。ビジネスの世界を勝ち抜く本当のしたたかさを持っていれば謙虚に振る舞うのは当然だろう。おごれる者は久しからず。謙虚であることは、成功を続けるために必須の条件なのである。


新卒から一貫して、この目線を持てていなかったな…。

 自分の身を切らず、自分の身を痛めずして、安全地帯で身を守りながら「キャラを立たせたい」と言ってもどだい無理な話だ。
 「見城徹という男はずいぶん生意気だが、刺激的な編集者ではある」。そう作家に理解され、他の編集者から頭を一つ二つ抜け出すためには、身を削りながら、涙がこぼれ落ちる切ない作業を重ねなければならない。相手と決裂し、物別れに終わるリスクも引き受けながら、僕は作家とがっぷり四つに組んで原稿を磨き上げて来たのだ。
 君は職場で目立つ人を見て「あいつはいいな」とうらやましく思うかもしれない。だが、そういう人は誰にも見えないところで魔物のような不安に夜な夜なうなされ、自傷行為のように身を削る努力をしているものだ。
 身を切り、血を噴き出しながら命がけで仕事をしてこそ、初めて圧倒的結果が出る。人人から認めてもらえる。「ここに〇〇あり」と皆に気付いてもらい、キャラクターとブランドを確立するためには、自らの身体から噴き出した血で旗を染め、その旗を高々と掲げるしかないのだ。


リスクを冒せ、と成功者が常々声高高にのたまうケースはもう見飽きるくらいに見たのだけれど、じゃあ、どんなリスクをとってきたの?という部分はちょっと気になりました。起業の流れをまとめたような本は多々あるけれど。

要はどんな意思決定を行なってきたの?というのを事細かに知りたくなってきたので、ちょっと調べてみよう。「私の履歴書」が近しいか。

 努力を積み重ねて価値を集積していけば、ビジネスパートナーや得がたい戦友は向こうから近付いて来る。
 755では「有名人や芸能人と仲良くなるにはどうしたらいいですか」と質問して来る人もよくいる。
 こんな質問をする時点で、その人はまったく見込みがないと思う。人は君がどんなカードを持っているか、冷静に見ているものだ。君の価値を決めるのは君自身ではない。相手だ。君が仕事で結果を出し続けていれば、「あの人はキラーカードを持っている」と気付いた人が向こうから近付いてくる。
 美人の周りには大勢の男性が集まる。努力して得た美貌であれ、天性の美貌であれ、美しさはその人の価値だ。有り余る金もその人の価値である。僕は容姿がいいわけでもなく大金持ちでもなかった。僕の1枚目のキラーカードは「本を出せる」「原稿を書ける」というだけのものだった。そこから圧倒的努力を続けた。
 だから出版の世界はもちろん、政界、スポーツ界、芸能界、テレビ界、経済界にも影響力を持てるようになった。有名人や芸能人と仲良くなるためのHOW TOなどない。
 努力に努力を重ねた君の生き方の集積が1枚のキラーカードになり、それが10枚貯まった時初めて人はあなたに近付いて来る。


ごもっとも。自分を磨き続けたいな、磨かなきゃな、という強い想いをこのタイミングで持っていたことを忘れないように、備忘録的にメモ。

 異物のような表現者と出会った時に、「嫌いなものは食べられない」と拒むようでは編集者の仕事は面白くならない。妥協して付き合うのでもなく異物はガリガリと嚙み砕き、ゴクリと呑み込む。異物を呑み込めない人に進化はないと思うのだ。


言葉の綾が面白くて、やはり編集者なんだなと….。(幻冬舎代表のイメージしかなかったので)

あまりこの表現を見たことがない。

 忙しさにかまけて相手に感想を伝えることを横着したり、感想を伝える気持ちが最初からない人がいる。感想を伝えるということに無頓着な人とは僕は付き合えない。感想を伝えることは、人間関係の最初の一歩だ。感想を言わなければ、初対面から始まった人間関係が滋味深いものへと発展することはない。さらに言えば、誠意とスピードだ。たとえ短い感想であっても、できるだけ早く相手に自分の想いを伝える。スピードにこそ、その人の誠意があらわれる。
 結婚式やパーティーのスピーチであっても僕はすぐに感想を伝える。
 文芸編集者として40年以上生きてきた僕は、相手に感想を伝えることに心血を注いできた。だから映画や芝居を観る時も、本を読む時も頭をフル回転させている。映画や芝居を見てしまったら制作スタッフや俳優にすぐに感想を伝えたい。本を読んでしまったら作家にすぐにぶつけたい。相手は感想を待っているに決まっている。次なる仕事への滋養にするため、生身から発せられる感想に飢えていると言ってもいい。だから常に僕は感想を言い表わすのに一番ぴったりな言葉を探して、のたうち回っているのだ。


無下にしがちな部分だけれど、大事だなーと。改めまして。

 仕事ができない人間の共通点は、自分に甘いこと。思い込みが強いこと。小さなこと、片隅の人を大事にしないこと。約束を守らないこと。時間に遅れること。他者への想像力が足りないこと。


これまで10年くらい社会人をしてきて、個人的な解釈でレベル感を付けると下記の順番でやばいはず。

①約束を守らない≒時間に遅れる:論外
②自分に甘い:個人単位のアウトプットクオリティが低下
③思い込みが強い:個人単位のアウトプットクオリティが低下
④他社への想像力が足りない:チームで働けない
⑤小さいことを大事にしない:個人、チーム双方に影響するが、大枠は捉えられているため

中途採用で、前職で結果を出してきたと思われる方でも、意外とチームプレイできない方がいらっしゃったりするのを思い出しました。反面教師で意識せねば。

 竹下登元総理は「自分で汗をかきましょう。手柄は人にあげましょう」と言ったそうだ。氏家さんはこの言葉を口にしながら「見城、僕はこの一行を加えたんだよ」と教えてくれた。「自分で汗をかきましょう。手柄は人にあげましょう。そしてそれを忘れましょう」「自分で汗をかいて働き、手柄を人に譲れる人なんてほとんどいない。その上、人に手柄を譲ったことを忘れられる人なんて、一人もいない。見城、お前はその一人になるんだよ」と、氏家さんは何度も繰り返し教えてくれた。
 恩は人に与えるものだ。そして、人にGNO(義理・人情・恩返し)を与えたことはきれいに忘れてしまう。田邊さんや周防さん、氏家さんのような「志高いやせ我慢の男」には、歯を食いしばって心の中で醸成してきた厚みのある色気が匂い立つ。


素晴らしいの一言。待ち受けにしたい。

 創業の翌春(94年3月25日)、幻冬舎は最初の6冊の作品を同時出版した。この時僕は「闘争宣言」と題するメッセージを発表している。
 <もう一度ゼロに戻したい。もう一度一つ間違えれば地獄へいく薄氷を踏んでみたい。そんな想いのなかで幻冬舎は出発しました。逆に言えば、幻冬舎の社員ひとりひとりの人生の問題として、今の自分に否定形の「NO」を言い続けるためにも、幻冬舎は設立されたのです。>
 角川書店時代の僕は33歳で雑誌編集長に就任し、41歳の若さで取締役編集部長まで昇進した。しかし「角川を離れなければ自分が駄目になってしまう」という想いが常にあった。「角川の見城」というブランドに寄ってくる人間に対し笑顔を見せている自分に吐き気すら感じていた。現状維持をしている限りいい仕事はできない。
 僕はなかなかゼロに戻せなくなっている自分に危機感を募らせていた。
 その後、角川書店を退社し、それまでの蓄積をいったんゼロに戻した。角川春樹社長の事件がなくてもいずれ辞めていたに違いない。会社を辞めて起業するのは、かなり極端なリセットだ。
 そこまで極端ではないにせよ、君たちにもリセットボタンを押さなければならない局面はあると思う。
 一つのプロジェクトで成功して大きな結果が出せれば、以後2~3年は成功の余韻と貯金で食いつないで行けるかもしれない。この状態が一番危険だ。ものすごい追い風が吹いていたり、競合他社がまったくいない無風状態であれば、すでに出た結果に寄りかかっているだけで15や20の結果を出すこともできるだろう。
 だが、そんなことは極めて稀だ。10の結果に寄りかかって安住していれば、次は8や6の結果しか出ない。それでもまだ現状に甘んじていれば、次は結果が5になり、2へと縮小再生産していく。
 自分が仕掛けたプロジェクトがブレイクし、大衆から注目を集める。そういう時にこそ、我が手につかんだ成功をゼロに戻し、新たなセンチへと転戦するべきなのだ。現役選手は常に現場にいなければならない。表彰台の上でいつまでもふんぞり返っているようであれば、現役なんて辞めてとっとと現場から退いたほうがいい。
 なぜ僕がいつも「ゼロに戻す」と自分に言い聞かせているのか。ひりついていたいからだ。ゼロに戻せば持ち物はなくなる。山の中を彷徨っている時、ナップザックの中に食糧やペットボトル、野営の道具や長期戦のための装備が揃っていれば、少しは安心することができる。持ち物が何もなければ、人はひりついてあがき始める。
 先の「闘争宣言」には、こんな文言も記した。
 <私達には今、何もありません。しかし、そのことが気持ちよいことだと感じています。私達を縛る出版界の常識もありません。ですから、史上最大の作戦もゲリラ戦も自由に戦うことができます。>
 何も持たず常にひりついているからこそ、大胆に攻められる。
 そんな僕も、50代半ばになってからは億劫になることもある。以前は1週間に2回は映画や舞台を観ていたが、「雨だからな」とか「今日は腰が痛くて嫌だな」と足が遠のく。
 しかし「まあいいか」と思った瞬間、崖の下へ転げ落ちる。
 年を取れば取るほど、忙しさのせいにしたり体調のせいにしたり、天候のせいにしてごまかす。要は面倒くさいだけなのだ。「まあいいか」という言葉は、絶対に呟きたくない。「まあいいか」を否定し続け、自分に打ち克ち、日々初心に帰るのだ。何年もかけて準備してきた大型プロジェクトがようやく完成し、大きな初版部数で本が出版される。発売と同時にプロモーションも稼働する。こうした熱狂の放出が終わると、僕はたまらない寂寥感に襲われる。
 一つの熱狂が終われば、自らゼロの地平に一人で舞い戻る。この地平から戦いを始め、まだ見ぬ熱狂の高みへと飛翔する。圧倒的結果をゼロに戻して新しい戦いに向かわなければ、より大きな成功や結果を絶対に得られないのである。


成功を捨てる、まあいいかを捨てる、そんな人生を歩んでいきたいなと思いました。

 755で僕に「頑張れば夢はかなうでしょうか」と質問してくる人がいる。こんな質問をされたところで、「かなうでしょうね」とでも答えるしかない。こういう言い方をしては申し訳ないが、「僕は夢に向かって生きていきます」という類の物言いには吐き気がする。
 現実は矛盾だらけだ。ピュアな夢なり野心だけで生きられるほど、この世はきれいごとで満ちあふれてはいない。矛盾によって板挟みに遭いながら苦しみ、七転八倒しながら、それでも匍匐前進する。
 他人には想像もつかないような圧倒的努力を積み重ねて初めて、結果は後から付いてくる。薄っぺらな野心や野望如きで這い上がれるほど、現実は甘くはない。「頑張れば夢はかなう」などと言っている時点で、すでにその人は戦わずして戦いに敗れている。
 僕には野心などはない。結果を出すことだけが僕にとっては善なのだ。薄っぺらな野心や野望など豚に食われろと思う。僕は山の麓の太った豚のような人生を送りたくない。「麓の太った豚になるな。頂上で凍え死ぬ狼になれ」。僕は毎日そう自分に言い聞かせながら、結果を出すため、矛盾に満ちあふれたこの世界で闘っているのだ。


生きるモットー=結果を出すこと、という方程式が非常にシンプルで、とても共感しました。

コンサル業に身を置く自分も常々意識している価値観だからこそ、共感が激しいのかもしれません。

 金だけじゃない、というのは自分への言い訳です。
 金が全てだということは僕が仕事を始める時の前提でした。
 それを無理にでも呑み込んで、僕はこの世界での戦いに飛び込んだのです。
 汚れているのは言わずもがなです。今も金が全てだと言い切っています。そう言い聞かせています。


これは前述した、売れるもの=正義と同じロジック。

 「往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」
 本書を通じ、この言葉の意味を僕なりに現代的に展開できたと自負している。一度この道を往くと決めたのならば、圧倒的努力によってとことんやり切る。妥協すると決めたからには、とことん妥協して圧倒的に辛酸を嘗める。
 人間はスーパーマンではない。哀しみながら、傷付きながら、自分自身と向かい合うしかないのだ。苦難に耐えることはあっても、人に安目を売らない。やせ我慢を通し切る。安目を売って楽をし始めたら、人生はバーゲンセールのように薄っぺらくなってしまう。

 この身から噴き上がった血液を使って、僕は自分の旗印を染め上げようと思う。
 血染めの旗を空高く掲げ、死へ向かって決然と歩んで行きたい。
 行く先は地獄かも知れない。それでもいい。君も僕と一緒に血染めの旗を空高く掲げてみないか。


妥協しない人生を歩んで行きましょう。