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GATTACA

舞台は、遺伝子操作により管理された近未来。主人公は宇宙飛行士を夢見ているですが、いわゆる「普通の方法」で生まれた彼は劣勢の遺伝子の為に希望のない生活を過ごします。身長でも体力でも遺伝子操作によって生まれてきた弟に負けたり、寿命は30年だと宣告されたりと。

家族からも、”能力には限界があるから宇宙飛行士は諦めろ”と言われる始末。家族の言う通り試験には落ちたものの、水泳勝負では弟に勝ち、溺れた弟を助け、自分の可能性を信じて家を出ることに。

「不適正者」の主人公はホワイトカラーになれない中、闇業者の手配によって、事故で半身不随になった元プロ水泳選手との契約を結び、その優秀すぎる遺伝子を用いて彼に成り済まし、宇宙飛行施設”ガタカ”(多分、今でいうところのNASAといったような感じ。)に潜り込む。

そんな中、殺人事件が起こり、警察が躍起になって遺伝子検査を開始。さぁどうしましょう。というお話。

そういえば、誰かにオススメされたっけなぁ。とたまたまDVDを見つけて観たんですが、思っていた以上に面白かったです。

就職面接に尿検査があったり、研究施設に入る時にはまるでスイカをタッチするかのように人差し指から血液を採取されたりと、近未来SFを思わせている割に、劇中に出てくる建物自体は60年代を思わせるような至ってレトロ。

そのアンバランスな感じが、なんとも不思議な世界観を醸し出していて好きでした。そして、映像がめちゃくちゃ綺麗。14年度作といってもおかしくないくらいに。

また、「不適正者」の主人公と、主人公に名前を貸すことで自分はこの世にいない存在として生きる「真の適正者」である元水泳選手。この二人の関係性が見物です。両者共々、お互いに夢を与え合って、二人で掴もうとする。このなんとも言えない絶妙な関係性。

さらに、GATTACAという不思議なタイトル。本編に入る前の監督なり出演者の紹介にも、”G” 、”T”、”C”、”A”の4文字は強調されて表示されていたんですが、この4文字はDNAの基本塩素の頭文字だそうで。

(グアニン、チニン、シトシン、アデニンらしいです。)

元水泳選手役は、ジュード・ロウが演じているんですが、やはり、彼はイケメン要素の塊のような人間で、こんな顔に生まれていたらいかに人生がバラ色だったろうか。と、鑑賞中5回以上は思いました。(うらやましい)

「僕に指図するな!僕に何ができて、何ができないか決めつけるな!」

「この世は不可能なことばかりだと思うか?欠点を探すことばかりに必死になってるから、本当のことが見えなくなるんだ。」

「あの時もそうだった。戻ることを考えないで、全部の力を出し切ったんだ」

作品自体は落ち着いた雰囲気の中で淡々と進みますが、遺伝子だけでは単純に分類できない人間の可能性、夢を諦めないことが真の適正であるというメッセージ、実現がそう遠くはないだろうという遺伝子管理社会など、考えさせられることは多かったです。生まれながらにして優勢な人は、立ち止まったり戻ったりする余裕があるものの、劣勢側としては努力して進み続けるしかないと。

ただ、「努力すれば夢は叶う!」といった言葉にすれば、かなり安っぽいことを訴えたいんだろうなと思ったと同時に、もしかしたらそれとは真逆の残酷性を真のメッセージとしていても少しもおかしくない。それが、ちょっと怖いなとも思いました。無駄がない分、どちらとも捉えられるような。

DNA鑑定が騒がれている昨今、本作のようなことが現実でももし起こったら….と想像すると恐ろしいんですが、後々になって調べてみたら、NASAが選んだ現実的なSF映画第一位にも選ばれているみたいで。

突拍子もないような現実離れしすぎでしょう、おいおい。といったような作品は嫌だけど、たまにSFでも観てみるか。といった方にはかなりオススメですね。

話が飛びますが、

「息子が君のファンなんでね」

と、医師が主人公に語りかけるシーンは本当に素敵だったなぁ。

味覚と口コミを考える。

「居酒屋の予約よろしくね。なるべく不味いところがいいな」

ある朝、アルバイト先でこんな言葉を耳にしました。見ると、社長が経理部門の友人に対し、当然であるかのように言っています。今やほぼ全ての情報がユーザーによる口コミで評価される時代。飲食店はその代表格とも言えるでしょう。

なのに、どうしてわざわざ”不味い”店を探させるのか?自分は気になっていました。(予約くらい自分でやれよ。というツッコミはさておき。)

休憩時間、たまたまその友人とランチを食べることになり、今朝の社長の言葉について聞いてみたところ、社長は「今ではどこの店もサービスは一定以上。少しでも悪ければ苦情の嵐。どこもそれなりに美味しい。そんなチェーン店が蔓延している。だから、そういった居酒屋に入ると、”どこで何を食べて、何を思ったのか”を覚えていない。それはなんだか悲しい事だと思う」と言っていたそうで。個人的にかなり腑に落ちた考え方でした。

「要するに、何の情報もない商品、それについて語る内容の無い商品を出されることに反発しているのだ。飲んで噴き出すほどまずいウイスキーなんて出会わないほど、品質が揃った時代だからこそ、サービスをするというのなら、そこに何らかの情報がほしいのだ。人とひとの間に置けば、そこから会話がはじまるモノ、語るべき内容を持つモノこそ、今はご馳走なのである。」

有名なコピーライターである仲畑貴志氏は、著書「みんなに好かれようとして、みんなに嫌われる。(勝つ広告のぜんぶ)」の中でこう語っています。

人々の記憶に残るということは、実は想像している以上に大変なことなのかもしれません。記憶の定着は、送り手の意図によっては保障されず、いくら思い入れを込めて語ったとしても、それが相手の心に確実に残るとは限らないわけで。

とまぁ、ふと耳にした言葉が以前読んでいた本の一節とリンクして、こんなことを思ったんですが、それと同時に味覚と口コミの関係ってちょっと面白いな。と思いました。

そもそも”美味しい”、”不味い”を判断する味覚は人それぞれ違います。人の味覚の発達は10~15歳頃までには終わると言われ、それまでに自分が口にしてきたものや、食生活、養育環境が個人個人の味覚を形成するらしいです。

となると、口コミサイトでの高評価を追い求め続ける限り、自分の舌に本当にあった「これぞ!」という料理には永遠にありつけないのかもしれません。

確かに、口コミサイトで高評価の店の料理は美味しいですし、それぞれの店にこだわりがあり、提供する際にはその料理に対する自信が垣間見える程です。ただ、そうやって行列してまで皆が皆同じ店に通うということが、知らぬ間に味覚の画一化を促進しているとも言えると思います。

自分は、口コミサイトに恨みがあるわけでもなく、利用することが間違いだ!と言いたいわけでもありません。口コミは情報の王様と言われる程、信頼できる情報の宝庫だと思っています。

ただ、自分の記憶に強烈に残る料理は、それなりの評価を追い求めて食べ続けるだけでは、見つけられないのかもしれません。

じゃあどうすれば良いのか。

というハナシですが、たまには、口コミに頼らずに、ぶらりと店を探してみる。また、あえて低評価の店に出向いてみる。そんなゆるい外食をしてみるのはどうでしょうか。

自分の嗜好を知ることも出来ますし、記憶に残る良い機会になりそうな気がします。なんてことを思いつつ、ブログに書きつつ、やっぱり星の高い店には一度は行ってみたいな。って思うんですけどね。