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「キリンを作った男」を読みました。

猛烈に面白かった一冊。一瞬で読み切った。

マーケターは全員読んだ方がよいのでは?と、半ば強引な思いに駆られています。

キリンビールと聞いて連想するであろう「一番搾り」「ハートランド」「端麗」「のどごし生」「氷結」….。といったヒット商品の数々を作った方(前田さん)のお話。

ああ、優秀なマーケターの商品開発話か、と思いきや、実は「ハートランド」はキリンの代名詞だった「ラガー」をぶっ潰そうとして企画した商品だったり、過去の成功を捨てきれない企業体質と真っ向勝負で戦ったその生き様に思わず息を吞む。

巨大企業であるがゆえ、一言居士を貫く前田さんはどうしても煙たがれる。そんな社内政治との闘いのくだり、そして成功体験を捨てるまさにアンラーニングの挑戦なんかは、マーケターでなくてもリーマンとして働いている勢なら誰しも刺さるかもしれません。

また、キリン一強時代にアサヒがとった戦略、スーパードライの脅威、などなど、日本でビールが一番盛り上がっていた時代における現場のリアルを体感できる点も最高でした。

以下、印象的だったエピソード・部分をメモとして少しばかり。

どうしたら口コミを起こせるか。どうしたらペイドではなくパブリシティーができるか
…前田がたどり着いたのは、次の6つのポイントだった。

①一つの商品にたくさんの情報価値=語りたくなる、伝えたくなる価値を盛り込む
②発信しようとする情報を受け手の身になって考える、整理する
③時代を読む
④関与者を多く作る
⑤即効性のあるメディアほど情報感度は鈍い。雑誌→新聞→ラジオ・テレビの順番を意識する
⑥追い駆けるより追い駆けさせる構造を作る

今でも学びがありますが、80年代半ばから上記に取り組まれていたという凄まじさ。

昨今のデジタル時代に現役のマーケターとして活躍されていたとしたら、どんなポイントを掲げるだろうか。

社内外を問わずさまざまな人々と交流し、人脈を築いていった。その1人が舞踏家の田中泯だった。
…前田仁と田中の出会いは、「ビアホール・ハートランド」の開業イベントで、舞踏公演を依頼したのがきっかけだった。
前田ははじめ田中の舞踏を理解できなかった。それでも、前田はそこで終わらず、何度も劇場に通って理解しようとした。そうやって見ているうちに、「途中、頭で理解することをやめると、舞踏が身体の中にスーと入ってくる感覚に襲われた」という。
この体験について、前田はこう記している。
「この原体験は仕事上でも役だったと、いまでも考えている。既成概念を壊し、新しいものを創るという点で踊りと商品開発は似ているからだ」
桑原(前田さんの上司)は「成功体験を捨て、既成の価値観を超えよ」と言っていたが、この一文はその桑原の教えとも重なる。
「成功体験が大きければ大きいほど、忘れられない記憶として我々の中に刷り込まれます。周囲の環境が変わっていても、どうしてもその体験を捨てきれないのです。そして、大きな失敗を犯してしまいます。成功体験と同様に、我々は多くの既成概念にも取り巻かれて生活しています。その既成概念も、所与の条件のように我々の思考と行動を支配します。それから抜け出す為にはどうしたらよいか。何時も自分の思考を真っさらにしておくことが必要です」
「自分の思考を真っさらにする」ため、前田は幅広くさまざまな人々と交流していた。田中泯のようなアーティストのほか、広告代理店、広告クリエーター、建築デザイナー、リサーチ会社の関係者など、実務家の人脈も広い。

一流には一流が引き寄せられるのかもしれないものの、意識的に多ジャンルの学びを活かしていきたいもの。

ここ3年ほどの積極的に人に会いにくい時代を恨みますが。個人的にフリーランス→大手企業への転職で圧倒的に人に会う数が減ったことに漠然と持っていた危機感をぐさりとやられた感覚です。

当時、前田の部下だった舟渡は、こう証言する。
「『ロングセラーに変える消費者たち』(ダイヤモンド社)という本が前田さんあてに送られてきました。千葉商科大学の教授をしていた熊沢孝さんの本でした。前田さんは忙しかったので、代わりに私が読んで、内容を教えろと指示されました」
『ロングセラーに変える消費者たち』は、ハウス「バーモンドカレー」や、グリコ「ポッキー」など、さまざまなロングセラー商品を分析していた。
名古屋工場時代、舟渡は、発酵学や生産管理の専門書を数多く読んでいた。ただ、マーケティングの本を読むのは初めてだった。舟渡は、新しい世界に触れる興奮を覚えながら、要点を自分なりに整理して、前田に提出した。
「1つ、企業の思い入れが感じられること。
2つ、オリジナリティがあること。二番煎じではダメ。
3つ、本物感があること。
4つ、お客様が得した感じを抱けること。要するに経済性です。日本の消費者は経済性が好きで、メーカーはその分、損をしがちです。
5つ、親しみやすさがあること。個性が強すぎるものは嫌われます」
舟渡の話を聞いて前田はこう言ったという。
「いいじゃないか。これでいこう」
こうして「一番搾り」の方向性がまとまっていった。

これはもはや、いつでも暗唱できるようにしておきたい。

「スーパードライ」の発売当初、キリン社内では、「あんな水っぽいビールが売れるはずがない」と言われていた。
だが、いまや「スーパードライ」は「ラガー」を圧倒し、キリンはシェア1位の座を明け渡すところまで追い詰められている。
一方、発表種ブームを前に、キリン社内では次のように言われていた。
「発泡酒はビールではない。まがいものだ」
キリンの人間は、ビールのプロだ。キリン社内の意見は「ビールのプロ」としては至極もっともな意見で、まさに「正論」である。
ただ、問題は、その意見が「正しいかどうか」という点ではなかった。消費者の感覚と一致しているかどうかが、もっとも重要な問題だったのである。
一般の消費者は「ビールのプロ」ではない。それゆえ、消費者の感覚は、往々にして「ビールのプロ」の意見とはズレる。
こうした「ズレ」を捉えることこそ、消費者理解の核心であり、ヒットを生むコツだと、前田は考えていた。
そうした前田の狙いが最高度に発揮されていたのが、「端麗」というネーミングだった。
「発泡酒は本来使うべき麦芽をケチった、安いビールだ」
キリン社内の人間も、発泡酒のことをこう考えていた。一方、前田は、「消費者は『安物』を求めていない」ことを見抜いていた。
「安売り王」ダイエーの「バーゲンフロー」は、大失敗に終わっていた。
消費者は安いビールを買っている。だが、「安物」を買いたいわけではない。あくまで「お得な商品」を買いたいのだ。
「ビールにあまりお金をかけたくないが、できるだけ本格派のビールが飲みたい」
その微妙なニュアンスを、前田の鋭敏な感性は見事に洞察していた。その結果、前田はあえて、カジュアルさを排した漢字2文字の商品名を採用したのである。
「端麗」のネーミングを最終的に決める際、前田は次のような消費者調査を行っている。
中身は同じだが、「カジュアルな商品名」の発泡酒と、「淡麗」のラベルの発泡酒の2種類を飲み比べてもらい、それぞれ「飲みたいかどうか(飲用意向)」「買いたいかどうか(購入意向)」をたずねたのである。
その結果、「カジュアルな商品名」の発泡酒は、飲用意向、購買意向ともに振るわなかった。
一方、「淡麗」のラベルを貼られた発泡酒は、飲用意向、購買意向、ともに満点だった。
中身は同じにもかかわらず、ネーミングによって消費者の受ける印象が大きく違う。「完璧」と言っていいほど、予想通りの調査結果を前に、前田は会心の笑みを浮かべていた。

これは、奇遇にも私が勤めている会社が掲げるフィロソフィーそのもの。

なかなかこの感覚を常に強く持てるメーカーも少ないはず。

もともとキリンの商品開発部では「ラガー」や「一番搾り」と「発泡酒」が競合しないように腐心していた。
一方、前田は「ビールが減っても、それ以上に淡麗が伸びればいい」という方針を打ち出し、「淡麗」が「ラガー」「一番搾り」と競合することもいとわなかった。
それは、かつてのキリンでは考えられない「発想の転換」だった。この前田の判断を、「マーケットの創造的破壊に挑んだ」と評したマーケターもいたという。
前田には勝算があった。
当時、景気が拡大していたアメリカでも、価値の安いエコノミー商品が販売量の6割を占めていた。ましてや、不況にあえぐ日本で、発泡酒が売れないはずがなかった。
90年代も終わりを迎え、人々の意識やライフスタイルは大きく変化しつつあった。仕事が終わったあと、上司が部下を連れて縄暖簾をくぐり、「とりあえずビール」で乾杯する光景もだんだん減っていった。
そんな中、特に若い世代には、「お酒はプライベートで楽しむもの」という考え方が広がりつつあった。自腹で飲むなら、少しでも安いお酒のほうがありがたい。
そうしたニーズに応える「淡麗」の大ヒットを、前田は確信していたのだろう。

いわゆる、イノベーションのジレンマに陥る社内において、この発想を柔軟に持つことの意義を感じます。

迎えた98年2月3日。
この日開かれた「淡麗」の発表会の席上では、完成していた「淡麗」のサンプル品も配布されていた。
アナウンスされた発売日は2月25日。ほかの開発チームが束になっても、まるで進まなかった発泡酒の新商品を、前田はたった4ヶ月で開発してみせたのである。
しかも、前田にとっては、子会社から本社に復帰して最初の仕事だった。普通では考えられないようなスピード感である。
なぜこんなことが可能だったのだろうか。
その理由について、上野は次のように語る。
「前田さんが一人でやったからです。淡麗の開発では、上司に確認をとる必要がありませんでした。前田さんは商品開発部の部長であり、一人のマーケターでもありました。だから、前田さんは自分でプランを考え、自分で決裁することが可能だったのです。逆に、そうでもしなければ、たった4ヶ月で新商品を開発するのは不可能だったと思います」
猛スピードで商品化された「淡麗」だったが、決して「やっつけ仕事」ではなかった。
いざ発売されるや、「淡麗」は消費者から熱狂的な支持を受けたのである。
当初の販売目標は、98年12月末までに1600万箱だったが、実際には目標をはるかに上回る3979万箱を売る。

と、紹介したらキリがないのだけど、かなりおススメです。

部下が処分を受ける際、自分も同じ処分を受けることが条件だ、と人事部に伝えたエピソードなど、尊敬する上司像としてもすごく素敵な方でした。

次に部下を持つタイミングができたら、課題図書にしたい一冊。