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なんで僕に聞くんだろう。

cakesで人気だった連載「幡野広志の、なんで僕に聞くんだろう。」のうちのいくつかが掲載された一冊。

実は、「2019年にもっとも読まれた連載」「1000万人が読んだ人気連載」が待望の書籍化!!!とのこと、恥ずかしながら全く存じ上げなかった。

筆者はがん患者であり、余命数年の写真家。そんな彼に投稿者から寄せられる人生相談に、綺麗事や建前ではなく、本音で真摯に向き合う。

知らない人たちの人生相談なのに何故か読む手を止められない。

時にクスッと笑えるユーモアも交えながら、相談者たちの肩の荷を軽くするような人間性は読んでいるだけで惚れ惚れしました。

(もちろん、感謝していることを前提として)

下記、特段気になった一節。

 最初に断っておきますが、ぼくは不倫が悪いとはおもいません。離婚を悪いこととも失敗ともおもわないし、ぼくが死んだあと妻が再婚を願うなら、あの世から背中を押してあげたいです。
 配偶者って、自分が選べるゆいいつの家族です。親きょうだいも親戚のおっさんも選ぶことはできないけど、自分の夫や妻は選べるんです。家族選びに失敗したら、かえりゃいいんです。
 たくさんの不倫相談に目を通していて、気づくことがあります。それは自分を偽っている人があまりにも多いということです。負い目を感じているためなのか、
自分を綺麗に見せようとする人ばかりです。
 不倫相談をするかたがたがよく使う言葉があります。それは「大切」という言葉です。
 彼には大切な家族が…..、私には大切な子どもが…..。
 日常会話ではわざわざ大切なんていいません。ぼくは息子のことを紹介するときに、大切な息子です、とは紹介しません。こういう話を聞くたびに、「大切」という言葉には、邪魔という意味が込められているんだなぁっていつも感じます。
 「今の彼の子を産むつもりはありません。彼の大切な家族を壊す気持ちはありません」
 相談者さんのこの一文、ぼくにはこう読めます、きっと本心はこうでしょう。「彼の子が欲しいです。私にとって邪魔な、彼の仮定が壊れてほしいです」
 そんなことはない、と否定されるなら、いますぐ別れましょう。彼の大切な家族のためです。彼にとっては大切でも、あなたにとっては邪魔なだけです。

 この相談はお母様にはしないほうがいいとおもいます。「『普通に結婚して就職するように』というお母さんの期待に応えたい」ということですが、普通ってなんですか?江戸時代の普通と平成最後の普通って違います。”普通”は時代で大きく変化するものです。
 親のいう普通って、だいたい親が経験した時代の普通ですよ。
 親子ってだいたい30歳ぐらい年齢が離れているものですが、30年もたてば時代って変わります。あなたが37歳ということは、お母様は67歳くらいでしょうか。親があなたとおなじ年齢のころ日本はバブルです、肩パッドで風を切りながら歩く時代ですよ。
 当時の男性の生涯未婚率は6%、非正規雇用者の割合は20%です。おったまげですが、これがお母様の時代の普通です。現在では男性の生涯未婚率は23%、非正規雇用者の割合は40%です。これがぼくたちの普通です、チョベリバ。…

 …「普通」という言葉に気をとられないでください。時代は変わりました。いろんな環境の人がいます。これからの「普通」は多様性です。いろいろな幸せの価値観があります。あなたがしあわせならそれでいいんです。

 ドラえもんにでてくる、ジャイアンがぼくは嫌いです。人をボコボコにしてモノを奪って、映画になったら急に善人になる。どんなDV男だよ。
ぼくはジャイアンのお母さんはもっと嫌いです。ジャイアンの意見には耳をかさず、やりたくない店番をさせ、暴力でジャイアンを服従させる、それでいて妹のジャイ子には漫画家の道を許す。ジャイアンがイジメっ子になったのには理由があります。

 「頑張れ」と言えませんでした。(お父さんのことを)否定しないぐらいしかできないですよね…とかなり謙遜しておっしゃってるけど、医療従事者でもないのにそれができてるってたいしたものなんです。なんでできているのか教えてほしいぐらいです。
 自分の話になって恐縮だけど、ぼくは親戚の言葉にいちばん傷つけられました。匿名のネット中傷やクソリプみたいなものなんてたいしたことなくて、正義感や善意がたっぷりの、たまたま血がつながっているだけの、年齢が親世代の親戚の言葉のほうが、遠慮もないから本当に面倒なの。
 父方の叔父からは「親より先に死ぬのは親不孝だぞ、治療をやりきれ」といわれました。
 不可能な要求を、亡くなったぼくの父の名前をかたっていうものだから、心が折れました。
 父の叔母からは、ぼくがやりたいことにたいして、まだ2歳にもなっていなかった息子を自分の顔の前に抱き上げて「パパそんなことやらないでぇ、一緒にいてぇ」と、息子がいっているかのようにいってきました。
 息子はなにをされているかがわからず、ぼくにニコニコしていましたが、ぼくは息子にたいして悲しい顔をしてしまいました。しばらく息子を苦しめているのではないかと落ち込みました。
 叔父のことは霊媒師、妻の叔母のことは腹話術師とぼくは呼んでいるのだけど、正直なところ、死ぬまで会わなくていいかな。
 あなたの相談を読んだとき、いちばん初めにぼくが感じたことは、あなたみたいな親戚が喉から手が出るほどほしかったなということです。本当に喉から手が出たら緊急手術しないといけないけど、それくらいお父さんがうらやましいという意味です。
 ぼくには否定せずに背中を押してくれる妻がいるけど、あなたみたいな息子さんがいるお父さんもうらやましいです。
 年齢はまったく違うけど、ぼくの息子とあなたのことがすこし重なってしまい、ちょっと泣きそうです。
 自信はないかもしれません、不安かもしれません、でもここでお父さまと向き合っておかないと、あなたの生きやすさにつながらないかもしれません。お父さまもそんなことは望んでいません。
 あなたとお父さんのボタンのかけ違いは、あとひと指で直せます。

 あなたは自分が被害者で、娘さんが加害者とおもっているかもしれませんが、まったく逆です。ちょっと前まであなたが加害者で娘さんが被害者だったの。過去にあなたの言動で娘さんを傷つけてしまっているんです。…

 親孝行という言葉がありますが、これはお金を払い続けた人が老後にもらえる年金のようなものです。子どもが親を大切にしたり、感謝したりすることが常識とおもわれがちな社会ですが、子どもを大切にして、子どもに感謝した親が享受できることです。
 自分のことを大切にしてくれなかった人を、どうして大切にできるんですか?従業員のことを大切にしている企業の社員は会社が好きになるので、たのしそうに働きます。娘さんの「汚い、近寄るな」という言葉にすべて集約されています。
 嫌いな人間とは会話をしたくないし、おなじ空間にすら一緒にいたくないでしょう。深夜に帰宅するのは、できればあなたと一緒にいたくないからです。

 そこまで娘さんがあなたのことを嫌いなのに、16歳で男性経験をすませたことや、ツイッターで男性を探しまわっていることを、どうしてあなたが知っているのですか?ただでさえ家族というのはテレビドラマを見ていてうっかりキスシーンが流れると気まずくなるぐらいなのに、こんな話題は、よっぽど親子関係が良好でないといいたくないものですよ。
 カフェで親子でデートして、娘さんからうれしそうに彼氏ができたことを教えられたわけでも、ツイッターを一緒にやりながら「ママ、この人どうかなぁ」と相談されたわけでもないでしょう。
 勝手な想像ですが、あなたが問い詰めたかスマホを強制的に見たのでしょうか。あなたはツイッターを制限すればいいとおもっているかもしれませんが、そんなことは根本的な解決にはなりません。娘さんに必要なのは、親のお金を盗まなくてもいい環境、深夜に帰宅しなくていい環境、買春をする男性の偽りの優しさに惹かれなくていい環境。
 18歳の娘さんが持ってるゲーセンのぬいぐるみを疑うって、ぼくからすれば親の非行です。あなたが娘さんを疑うように、娘さんもあなたを疑っています。
 親子関係というのは積み重ねです。あなたの積み重ねの結果がいまの娘さんです。子どもが大人に成長したあとの親への態度は、親が子どもにしていた態度です。
 娘さんに変わってほしければ、あなたが変わるしかありません。

 ぼくは死ぬことを肯定的にとらえています。健康なときからずっとそうです。こういうことをいうと、ギャーギャーといわれちゃいそうなんだけど、人に対して死ぬ死ぬといっているわけじゃなくて、死ぬことを否定しないという程度のことです。
 だからぼくは自殺をまったく否定しません。ただ本当に自殺を実行する人には、自殺の失敗だけには気をつけるようにいいます。自殺したいほど苦しんでいる人が選んだ死です。それを否定する人って、結局は自分が悲しみたくないだけですよ。あなたの周りにもあなたのことを否定する人、たくさんいるでしょう。
 「自殺したらダメだ」という言葉って一見綺麗だし、倫理観的にも正しいですよね。でもこの言葉で、自殺したい人はさらに追い詰められるだけなんです。だって、ただの否定と押し付けだから。
 はっきりいってしまいますけど、健康な人からすると、自殺したい人の話って面倒なんデスよ。自分の一言がきっかけで死なれても困るし、オレだってがんばって生きてんだっておもっちゃうし、だから「死んじゃダメだ」って自分のために相手を否定するしかないですよね。
 これって「黒ひげ危機一発」にソックリなんです。黒ひげの悪人顔がぼくに見た目ソックリという話ではなく、構造がソックリということです。
 みんなナイフが刺さっていないときは何も考えずにナイフを刺して、だんだん穴が減ってきていよいよ飛びそうになってくると、とたんにどこに刺そうか考え出すんです。運のゲームだから考えたって無駄なのに。そもそも考えるなら、最初の一本から考えればいいのに。
 黒ひげが「自殺する人」、ナイフが「否定する言葉」です。最後のナイフで黒ひげが飛んだようにおもうけど(というかあれはそういうゲームだけど)、じつは否定の言葉を刺した全員で殺しているんです。あなたの自殺をいま否定する人は、あなたが本当に死にそうだから否定するのです。でも、あなたの入ってる樽に余裕があったときにナイフを刺してきた友人は、なにも感じないですよ。そもそもナイフを刺した感覚もないだろうし。
 「健康な人からすると、自殺したい人の話って面倒なんデスよ」と書きましたが、本音をいえば自殺する人と関わりたくないんでしょうね。みんな死んじゃダメっていうけど、コストをかけて自殺を止める人は極めて稀です。ちなみにこのデスはdeathとかけています。誤変換ではありませんデス。
 すこしまえに、自殺する人が最後に電話をかけて相談する全国規模の団体で、講演をしたんです。対象はその電話を応対する相談員のかたがた、一般のかたは対象外でした。つまり自殺したい人と日常的に話をするかたがたです。「なんでぼくに聞くんだろう?」って感じた最大のピークはこのときです。
 人手不足のなか、電話は一日中鳴り続けるそうです。彼らは講習を受けたボランティアで、訓練を受けた医療者ではありません。イライラして怒鳴り付けてしまったり、「しっかり生きろ」と説教をしてしまうこともあるそうです。ぼくはその話を聞いて、最後の自殺を止めるどころか自殺を促してしまっていると危機感をもちました。
 「まずは自殺することを否定せずに、肯定してあげてください。いつでも死のうとおもったら死ねるんだから、いま生きる方法を一緒に考えましょう」
こういうように、と電話相談員に伝えました。しかし彼らのほとんどは納得のいっていない顔をしていました。

 これは健康な人には理解されにくい感覚かもしれません、でもあなたにはわかるんじゃないですか?ぼくも病気になって自殺を考えましたが、自殺したいときにいちばん苦しかったのは自殺を否定する人の言葉です。

 褒められたときに居心地の悪さを感じてしまうのは、きっと自信がないからなんでしょうね。自分に自信がなくて、自己評価と他者評価がうまくマッチしていないから、居心地が悪いのだとおもいます。
 36歳にもなってなにをいってんだっておもわれそうですけど、この自信のなさって結局のところ、子どものころに褒められなかったことが原因だとぼくはおもいます。
 中学校のころのぼくと、いまのぼくの国語能力はほぼ変わりません。子どものころも言葉を知りませんし、文法はわからないし、漢字も書けませんでした。
 だから国語の成績がすごく悪かったんですよ、もちろん国語だけじゃなく他の教科も悪かったです。写真家なんて自称していますが、美術の成績もバツグンに悪かったですよ。
 親は成績しか見ていないから怒りますし、同級生からもバカにされるわけです。子どものころのぼくは、ドラえもんがいないのび太のような子どもでした。
 ダメな子であると周囲から評価されていたので、自分でもダメな子なんだろうとおもい込んでいました。
 だから自信なんてあるわけないじゃないですか。この環境で自己肯定感が高い人間になれたら、逆にちょっとヤバいでしょ。
 親戚や一部の知人あるあるなのですが、さいきんになって、村から勇者でも出たかのように褒めたたえるわけですよ。子どものころは学校の先生が評価した成績で怒られて、36歳になったいまでは、世間の誰かが評価した言葉でぼくを褒めるわけです。
 言葉を紡いじゃってますけど、どれだけ褒められようと、評価そのものを褒められるのはとても虚しいものです。
 褒められてうれしい感覚はぼくも理解できるのですが、これって安かったときに買っていた株が高騰してよろこんでいるうれしさと一緒ですよ。株価が急落したら怒るか、もしくは他人のふりをするわけです。
 結局、誰かの評価でしか人を見ることができない、すこし悪くいえば見る目がない人たちなのだとおもいます。
 ”注目株”になったことでたくさんの人から会いたいといわれます。撮影の仕事も文章を書く仕事もたくさんいただきます。
 ぼくの写真や文章がいいと感じてくれて、仕事を依頼してくれたり、話を聞きたいとおもって、会いたいといってくれるわけです。”ぼくの評価”を評価しているのではなく、”ぼく”を評価してくれることなので、本当にありがたいことです。
 病人になろうが、注目株になろうが態度を変えない人の存在に、ぼくは救われてきました。だからぼくも病人になろうが注目株になろうが、態度を変えないように心がけています。ちょっと皮肉な話ですが、自信のなさがあるから、天狗にならないでいられるのかもしれません。
 そして変わらないということが、とても難しいことであることも理解できました。

 学校の先生って文章の書きかたを教えてくれませんよね。文章の書き方を教えないで、いきなり自由に書かせる作文の授業って、いったいなんのためにやってるんでしょうね。
 子どもの作文ってびっくりするほどみんな似てます、アホな男子の書き始めはだいたい「ぼくは」です。
 ぼくはいまでも、ぼくは…からはじめることばかりです。書き始めってなんて書けばいいんだろ?
 よくよく考えてみると、美術の授業で美術館には行かないし、美術に触れることなく自由に描かせますよね。音楽の授業だって合唱を聴かせることなく、いきなり合唱させるわけです。
 インプットがないのに、アウトプットができるわけないじゃないですか。大人だって見本や手本がないとできないのに、なんで子どもには手本を示さないのだろう?

 あなたの質問の答えになっているかどうかわかりませんが、もしも、ぼくが学校で作文を教える先生だったら、「ウソはつかない」ということを教えるとおもいます。
 ウソをつかないというのは、作り話をしないということではありません。作り話ができる子だったらもっとおもしろい作り話ができるように、ぼくはきっとその方向性でのばします。
 ウソというのは、おもってもいないことを書くことです。
 平成から令和になったわけですけど、小学校低学年ぐらいの男の子がテレビに街頭インタビューを受けていました。「平成が終わるけど、どうですか?」という、年齢に対して質問内容がまったく合っていないアホな質問をされていたのですが、その男の子は「ちょっとさみしいです」と答えていました。
 この男の子はそんなことおもってないわけですよ。ぼくも昭和を5年ほど経験しましたが、平成に変わったときに、ちょっとさみしいなんておもわないわけです。それよりもテレビが皇室関連のことばかりでつまらないなぁとおもっていました。
 子どもが困ったすえに出した答えなんです、インタビューしてる記者も笑顔で、きっと親も笑顔なんですよ。大人の顔をみて答えているんです。
 きっと学校の作文の授業も、子どもの学力向上や文章能力を高めることが目的ではなく、大人がよろこぶためのものなんでしょうね。いったい誰のための授業なんだろう。
 本音で書くというのがぼくは大切なことだとおもいます。自分が日々感じていることや、自分がたどりついた答えを、ウソをつかないで書くということをぼくは心がけています。
 誰かをよろこばせるために書いているわけではないので、誰かがよろこんでも、もしくは誰かが怒っても気になりません。
 ウソをついた文章ってすぐにわかるんですよ。あなたもウソをつかない文章を書いてみてください、そんなに難しい話ではないです。暑い日に暑いとおもうことや、美味しいラーメンを食べて美味しいとおもうこととそんなに変わりません。

 一部の遠慮を見失ってしまった親や親戚ほど、黙って見守る、困っていたら助けてあげるという大人の対応ができません、黙っていられない、お節介な人たちです。
 自分が経験した子育てが絶対だと信じて、新しいものを拒否してきます。例えば子育てにスマホやタブレットを活用するのを否定しがちだったりします。
 良いところを残して、新しいものをとりいれなければ、何事もよくなっていきません。
 100年前なんて東北の農家の娘は売られていたわけです。いまの時代が最先端でいちばん良いんですよ、社会はぼくたちでどんどん良くしていくの。
 黙って見守る、困っていたら助けてあげる。というのは子育てにおいてとても重要なことだとぼくはおもうのですが、そんなこともできない人に子育てのことをいわれたくないですよね。
 「親になれば、わかるよ」なんてよくいったりしますよね。ぼくはまだ3年しか親をやっていませんが、それでも親になっていろいろわかったのは、親世代のダメさですよ。
 「親になれば、わかるよ」というのはじつは「親になったら、バレるよ」です。
 親にならなくても、大人になるってそういうことじゃないですか。子どものころは30歳ってすごく大人に感じたけど、実際に30歳になってみて、自分のこと大人だと感じますか?やっぱりバレちゃうんですよ。

 …そしてね、愚痴だったり不幸な話というのは、じつは聞いているほうはすごく精神的に負担なの。人の不幸は蜜の味ってよくいうけど、あれは不幸な話を甘い蜜にしてくれるミツバチさんのテクニックなのよ。不幸な花粉だけなら、くしゃみの連発です。
 ぼくは不幸な花粉話を聞かされることがよくあるんだけど、まったく話は聞いていません。もちろん相手を黙らせることはしませんが、聞いているふりして、3億円の宝くじが当たったら何をしよう?っていう妄想にふけっています。
 冷たいとおもわれるかもしれないし、愚痴ぐらい聞いてあげなよっておもわれるかもしれないけど、まともに聞いていると、どんどんこちらのメンタルが削がれてしまいます。3億円の妄想は、心を穏やかにするための、ぼくなりの防衛策です。
 3億円の使い道は、好きな本や好きな道具を販売しつつ、内装やグラスにちょっとこだわったカフェをやるという、絶対に失敗する事業パターンにいつも着地します。

 愚痴だったり不幸な話だったり、波瀾万丈の話は、なるべくおもしろく話せるようになったほうがいいよ。そうすればみんなすすんで話を聞いてくれるから。オレの話を、私の話を聞いてもらえない。聞いてもらえないものだからビャービャーいってしまう。….って人がけっこういるんだけど、あれってやっぱり話がつまんないから聞いてもらえないんだよね。
 穏やかな人生を送ることというのは、心のありかたや、考えかた次第だとおもうよ。あなたが波乱万丈だとおもえば、波乱万丈だし、穏やかとおもえば穏やかです。気楽に生きようとおもえば、気楽です。
 誰かの価値観で決めることではありません。どっちがいい人生かあなたが選べばいいの。

 ぼくは妻にたいしても、再婚したければどんどん再婚すればいいとおもっています。でも、もし妻が再婚するとなると、ギャーギャーと彼女に文句をいってくる人がいるとおもうんです。永遠の夫婦愛や夫婦の絆という感動ポルノに泥酔した人たちだとおもいます。
 「夫を病で亡くして、悲しみにくれつつも懸命にがんばるシングルマザー」というドラマをおつまみにして、苦労とか貧困まで追加でオーダーするような感動ポルノにベロベロに酔っ払った人が、妻をしあわせにさせまいと邪魔するんですよ、勘弁してほしいよね。妻よ、ラクに生きてくれ。
 あなたのいう「しあわせになるうしろめたさ」って、生きている誰かの目や、大衆居酒屋感動ポルノを気にしてるんでしょ。そんなの気にしなくていいよ、人の目を気にしてしあわせにならないなんて、死ぬまえにすっごい後悔するよ。
 死ぬまえに後悔している人ってけっこういるんです。これには一つの共通点みたいものがあって、人の目を気にして生きている人ほど、死ぬまえに後悔をしているようにぼくは感じます。
 そして人の目を気にして生きてきた人ほど、人の目を気にして死んでいくようにも感じるから、人の目を気にする生きかたはやめたほうがいいよ。
 傍若無人やワガママになるということじゃなくて、自分にとってのしあわせや好きなことがなんなのかよく考えて、好きなことをしたり、しあわせを享受できるように自分の駒を進めていくことが大切だとおもいます。
 ただ、あなたにとってのしあわせは、他の誰かにとってはしあわせではないかもしれません。それくらいしあわせのかたちというのは多種多様です。結婚とか出産とか、ドラマが描くようなしあわせのかたちがあるけど、それが日本人全員のしあわせとは限らないです。

 ”加害者になった元被害者”というのは、ぼくも付き合えません、無理です。そりゃ綺麗事や道徳的なことをいえば、話を聞いて受け止めてあげるべきなんでしょうけど、ぼくにもぼくの人生があるので無理です。
 加害者になった元被害者というのは、金銭や収入の問題でよく見かけます。さいきんも「12年勤務して手取り14万円『日本終わってますよね?』」というツイートが話題になっていましたが「そんなの大したことはない、オレは月収12万円だ」という旨のコメントをたくさん目にしました。
 加害者になった元被害者の人がもしも人を雇う立場になったときに、きっと12万円で人を使ってしまうんですよね。月収12万円がかなりきついって知ってるはずなのに。加害者になった元被害者というのは、自分がしたつらい経験を、人にもさせようとする人ですよ。負のスパイラルを増長させるような人です。
 あなたは周囲を恨んでいない、それどころか若い人に同じ轍を踏んでほしくないとおもっているわけですよね。負のスパイラルには入ってないですよ、それどころかそれを断ち切ろうとしているわけで、ぼくからすれば立派な人格者ですよ。
 あなたみたいな人ってなかなかいません。フィクションのような綺麗事ストーリーにはたくさん登場してくるけど、救済者になる元被害者っていそうでいません。
 ぼくはあなたみたいな人が、若い人を指導や育成する側になるべきだとおもいます。

世間にはいろんな悩みを抱えた人がいるんだな…というのをリアリティを持って体感できるのが、視野の狭まった自分にとっては貴重な一冊でした。

細かい言及は避けるものの、自分も家庭環境やら友人関係やらに苦しんだ経験があり、共感できる節も多々。

レベルは全く違うのだろうし、もちろん、感謝してもしきれないくらいなのは前提として。

なんてこと書くものではないですね。反省。