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「去年の冬、きみと別れ」に感じた映画におけるプロモーションのジレンマ

観てきました。TOHOシネマズ六本木だとなぜか英語版字幕つきの回しかないので、ヒルズ族の皆さまはお気をつけくださいまし。(ニッチ)(だし、そもそもヒルズ族な皆さまはヒルズの映画館を使わない説?)

(※下記、ネタバレはしません。)

あらすじはこちらをご参照ください。

最愛の女性との結婚を控えた新進気鋭の記者、耶雲(岩田剛典)が狙った大物は、猟奇殺人事件の容疑者、天才カメラマンの木原坂(斎藤工)。真相に近付く耶雲だったが、木原坂の危険な罠は耶雲の婚約者、百合子(山本美月)にまで及ぼうとしていた―。

謎解きに来た感覚で観ていたのの、6割くらいしか想像はできず。原作未読なのだけど、おそらくきちんとしたミステリーなんだろうなと思いましたね。映像作品としての粗は幾ばくかあれど、展開もオチもしっかり成立していて優秀だなーと。(誰目線)

ただ少しも感情移入ができなかったなと。登場人物のいちいち余白のある演技が気になってことも勿論あります。(とはいえ、ミステリーなのでよいのです)

しかし、こんな表現初めてするけれど、そもそもの犯人が志向性がイってしまっているというか、そもそものパーソナリティが狂いすぎてて理解ができない苦しさがありました。特に執着の動機など。

また、あれほどCMなどで”騙される人が多いですよブランディング”をしてしまえば、観ている側だって、一つ一つ勘ぐってしまう。ただ、そういった勘ぐるスタンスがないまっさらな状態で鑑賞した方が、秀逸なトリックに対する心の揺れ幅が大きいはず。

しかしながら、観客動員数を稼がなければそもそも作品自体の上映期間を稼げない点、そういった英断をなかなかしづらい映画における”プロモーションのジレンマ”なるものを多分に感じる作品でした。

(プロモーション予算を低くして口コミで伝染していくような方式をとってもよかったのではないかな…と思いつつも、アカデミー賞授賞式など映画業界全体の興隆期にぶつけた点と、そもそも小説原作でオリジナル脚本ではない点などが絡んだんだろうな…)

まぁ同じようなブランディングをしていたと思われる、イニシエーション・ラブよりも文句はないですね。(あれは、今すぐラストをごっそりカットしてほしい)(どうした堤監督)

演者でいえば、斎藤工、北村一輝、そして浅見れいなの幼い頃を演じた子役の子!凄まじかったですね。あるシーンが結構トラウマ的に怖くて、さっそく夢に出てきました。

岩田君(がんちゃん?)はもう少し笑った方が、作品により一層の奥行きがでたかもなと。かの有名なカイザー・ソゼのように。あの少しも笑わないという演技において、一種の緊迫感と違和感を根付かせようとしていたのなら理解はできますが。

山本美月の演技は相変わらず….。どの作品でも山本美月は本人役なんじゃないかなと思ってしまいますね(褒めてません)(ただ唯一、下記はドはまりしてたような)。

上からはいりも下からもはいり。

しかしながら、写真を撮られている際の佇まい….。美しかったな…。だいぶ好きな顔ですね(なんの話)

ウィル・スミス大絶賛の「ジュピターズ・ムーン」がとても面白かった

先週観てきました。渋谷のヒューマントラストシネマにて。

ここの劇場は居心地がいいことはもちろん、飲食物がしっかりおいしいのが素晴らしい。(「セッション」に出てくるレーズンを入れたポップコーンに似たやつがおいしい)(ビールもハートランドが置いてある!)

あらすじは下記にて。

医療ミスによる訴訟で病院を追われた医師・シュテルンは、難民キャンプで働きながら違法に難民を逃すことで賠償金を稼ぎ、遺族による訴訟取り下げを目論んでいた。 ある日、被弾し瀕死の重傷を負った少年・アリアンが運び込まれる。シュテルンはアリアンが重力を操り浮遊する能力を持ち、さらには傷を自力で治癒できることを知り、金儲けに使えるとキャンプから連れ出すことに成功する。 その頃、アリアンを違法銃撃した国境警備隊が口封じのため彼らを追い始めるが、行く先々で起こる失踪やテロ、不可解な事件の現場に少年の痕跡が残されていることに気づく―

カンヌで審査員を務めたウィル・スミスが「「ジュピターズ・ムーン」が本当に好きだ。これから先、何度も何度も繰り返し観たいと思う最高の映画だったよ。だけど他のどの作品も素晴らしくて審査員のみんなを説得できなかった。時に民主主義って最低だね」と称した一作です。

ちなみに「ジュピターズ・ムーン」ってどういう意味?と気になる方が多いはず。下記をご参照あれ。

「ジュピターズ・ムーン」とは・・・
現在、木星には67の衛星があることがわかっている。そのうち、天文学者ガリレオ・ガリレイによって発見された「エウロパ」は、「ヨーロッパ」の語源となったラテン語「EUROPA」と同じ綴りの衛星だ。エウロパの地表を覆った厚い氷の下には塩水が流れ、そこには生命体が存在する可能性も示唆している。つまり人類や生命体の「新たな命の揺りかご」になり得る場所なのだ。本作を近未来を舞台にしたSF映画として企画したコーネル・ムンドルッツォ監督は、リアルなヨーロッパではなく、どこかにある”もうひとつのヨーロッパの物語”だという思いから、本作を木星の月(₌エウロパ)と名付けた。(本作パンフレットより)

結論、とってもよかったです。(僕も繰り返し観たいぞ!ウィル!)

下記、ちょっとネタバレします。(すみません)

まずなんといっても素晴らしいのは、主人公アリアンが浮遊する映像表現。どうやって撮っているの?と思ってしまうくらい(ちなみに俳優とカメラをクレーンで吊って撮影したとのこと)。

主演俳優の飛び方がとっても端正だから、尚更きれいに見えるんですね。軸が細くてまるでバレエダンサーを見ているよう。

そんな主人公の名前はアリアン・ダシュニ。アリアンという名前がどことなくシェークスピアの「テンペスト」に出てくる妖精”エアリアル”を彷彿とさせるお名前。(実際、念頭にして作られているとのこと)

その点、上記ジュピターズ・ムーンというタイトルの由来もそうだけど、天文学であったりオカルト(?)系に造詣が深い方であれば、なお一層楽しめる作品だと思います。

主人公は冒頭にて銃撃に会うわけですが、その後は果たして生きているのか死んでいるのかが一切語られない。ここはこの作品を一味違うものにしている重要なポイントです。

(本作の舞台は”エウロパ”なので、生きていても死んでいても、たとえ主人公が何をされても死なない設定でも、何があっても成立してしまうんですね)

ただ、そういっただいぶ非現実感あふれる要素と相反して、今なお現実世界で起こっている難民問題の描写がリアルなんですよね。なので、あれ?これはドキュメンタリーなのか?と少し悩みました。(ちなみに、本作の舞台であるハンガリーは、ヨーロッパの中で最も移民・難民に厳しい国だそう。)

いや、エウロパなんですが、監督はフィクションでありながら現実を反映させた物語として観てもらいたかったんですね。(下記の言葉にもあるように。)

「この映画は”alien(宇宙人、外国人、よそ者)”を描いている。”誰がよそ者なのか”と問いかけているんだ。それは視点の問題にすぎないが、”信用”や”奇跡”、”周りとは違う”ということに対し新たな問題を提起するには、遠く離れた惑星の出来事のようなイメージの方が適している」

「本来は未来という設定だった。しかし映画の制作資金を集めているうちに、描こうとしていた事態が起きてしまったんだ。難民たちを取り巻く情勢が現実になったため、そのまま撮影すべきか議論をしたよ」

「残念ながら最初に考えていたような未来の物語ではなくなった。しかし難民という題材を語るうえで、また”奇跡”とは何かを改めて考えるコンテクストとしても、現実の危機的状況を取り入れることは必要だった」(本作パンフレットより)

というか、制作しているうちに収束させていった力量に感服してしまうな…。

また上記背景に加えて、やっぱり脚本が素晴らしい。予告編のみだとやはり浮遊シーンの映像表現に着目しがちなんですが、そこを取っ払っても十分楽しめるかと。

本作は「奇跡(天使であったり、神)と相対した際に、あなただったらどうする?」ということを投げかけていたんですよね。

銃に打たれたアリアンを救うのが、飲酒状態で医療ミスをするという許されざる罪を背負った医者(生き返ったかどうかの描写はありません)。遺族のもとに賠償金と謝罪を述べても許される(救われる)ことはない。

突如出会ったアリアン<神・天使>に、自身の罪の救いを求めるんですね。

また、移民であるアリアンを狙撃した警官。彼は偶然にもアリアンの浮遊を目の当たりにして、アリアンに興味を持ち、最後は追い詰めるわけですが、結局は見逃してしまう。

それは、人智を越えた存在を目の当たりにして、どう接するべきかに戸惑っているから。果たして、天使ないしは神のように見える存在を自らの手で裁けるのか?と。

この3人の重厚な関係性はとても見ごたえがありました。

そして、素晴らしいラスト。

英語でかくれんぼをしている難民の子どもが、「Ready or not, here I come.(準備ができてなくても行くよ)」と。これは奇跡(アリアンの出現)や危機はいつ訪れるのか予測できないというメタファー。

また、警官のシーンをうまく引き継いでいるんですよね。アリアンを追い詰めたものの、結局は見逃したあのシーン。それもどこか納得気な表情で。

その時の彼の心情を、ラストで物語っているのかなと思いました。

今は見逃すけど、”もう待てないよ”と。

「キングスマン ゴールデンサークル」は期待通りの面白さだった

期待していたキングスマンの続編を昨日観てきました。とっても面白かった!ので書きます。(失敗しがちな続編にしては素晴らしかったと思う)

少しネタバレを含むので、まだ観てない方はここまでで。

去年か一昨年あたりに、意味深なポスター予告が突如現れて話題になりましたよね。ハリー(ガラハッド)の「私が死んだという報せは多少大げさすぎるように思える」的な意味合いのやつ。

旧友からのメッセージ。だなんてシャレオツすぎる。

本作のあらすじは下記にて。

スパイ機関“キングスマン”の拠点が、謎の敵、ゴールデン・サークルの攻撃により壊滅。残されたのは、前作で一流のエージェントに成長した主人公エグジー(タロン・エガートン)と、教官兼メカ担当のマーリン(マーク・ストロング)のみとなってしまう。敵を追い、同盟を結ぶスパイ機関“ステイツマン”の協力を得るためアメリカに向かう二人。しかし、表ではバーボン・ウイスキーの蒸留所と最高級のバーボンを提供する店を経営しているステイツマンは、英国文化に強い影響を受けたキングスマンと対照的に、コテコテにアメリカンなチームだった!彼らは文化の違いを乗り越えて、ゴールデン・サークルが企む陰謀を阻止することができるのか!?

開始3分からいきなりのアクション飛ばしまくり。さすがですね。前作もそんなに昔じゃないように思うんだけど、ここ数年で映像表現の技術が格段に上がったように思います。アクションシーンの迫力たるや。

しかも、出てくる車も小物もスーツも何もかもに見栄えがある。(これは自分が英国紳士風の服装フェチなだけかもだけど)

前作が空前絶後のスマッシュヒットだったかつ、エグジーを演じているタロン・エガートン君はなんと映画初出演。「バイオレンス多めなのにどことなくお洒落でしかも笑える、そしてスッキリ!」という色んな意味で映画の新境地を開拓した作品の続編なわけで、これはこれはプレッシャーが大きかったはず。

その前提においたら、本作は完全に成立していました。その点抜きにしても面白かったし結構声上げて笑った。

ステイツマンが出てくるのがだいぶ急だったし、キングスマンに対する理解に比べたらステイツマンに関する情報がだいぶ薄いけれど、まぁその点は多めに見たい。それくらいには面白かった。(もはや”ステイツマン”っていうスピンオフが十分にできるレベルに薄かったな)

というか、ステイツマンのボスもチャニング・テイタムがやってたテキーラも影薄すぎるでしょ!(ランスロット死んじゃったしw)

この作品のシリーズを通しての面白さといったら、やっぱり個性的な敵役(なぜかアメリカの大富豪縛り)が欠かせないと思うのだけど、今回もなかなかのヒステリックさ。

前作のヴァレンタインは地球の自然を守るために、貧乏な人々に殺し合いをさせて滅ぼすというエコであるにも関わらず貧困層を見下すアメリカのリベラルの自己矛盾を揶揄する存在だったけれど、今回のポピー(ボス)はドラッグを供給しているのに解毒剤をもってドラッグを合法化しろという、こやつはドラッグを肯定したいのか否定したいのか…。

って思っていたんですが、そこで重要なのが「カントリー・ロード」であると。つまり、彼女はアメリカに帰りたいんですよね。だから帰国して、自由に商売を行いつつ、正式に公的な地位と名誉が欲しかっただけなのだと。

敵のアジトはカンボジアの山奥という設定だったけれど、ポピーが「こんなへんぴな山の中で!(In the middle of nowhere)」と何度も言っていて大丈夫かな?と思いきや、やはりカンボジアでは上映されていないらしい。笑

そんなポピーのおかげでドラッグ使用者が一掃できると喜ぶ大統領は「ドラッグとの戦争」を宣言したレーガンがモチーフらしいですね。エイズ流行の際に一切の対策を講じずに「同性愛者を死なせようとした」と批判されたレーガン。

あと、エグジーが腕にオートメイルみたいなのつけてる敵の元カノを口説けたのは、Tinder左スワイプから連想するに、彼女のSNSを観ていたからなんだろうね。フェスに参加することを知ったのもSNS経由だし。(スパイたるもの情報が大事とはいえ、なんと現代的なこと)

劇中、一つだけ気になる点があるとしたら、やはり、なぜステイツマンが敵だということにハリーが気付けたのか。

ハリーのスパイとしての勘なのか、エグジーと2人だけでイタリアに行きたがったこと かつ わざわざ解毒剤を狙って振り払ったからなのか。それだけじゃちょっと弱いかなぁと思っているのだけれど。

一応、かつての彼女が麻薬中毒者に殺害された → 麻薬中毒者は死ねばいい → ステイツマン・キングスマンはワクチンを配ろうとしている → 止めなければといった構図自体は理解できたんですが。

これはもう一度観て確かめるしかない。

そして、エルトン・ジョン最高!!!!

エンドロールのElton Johnの横に「himself」って書いてあったのは地味に笑ったし、実際にゲイであることを認めているから、ゲイ衣装で演じている本作のハマり具合にもやっぱり笑ってしまった。

最後に、ハリーが引用したセリフ。

This is not the end. It is not even the beginning of the end. But it is, perhaps, the end of the beginning.(これは終わりではない。終わりの始まりでもない。だがこれは始まりの終わりかもしれない)

これはウィンストン・チャーチルの演説から引っぱっているわけですが、つまりは次回作の暗示。

今から楽しみですね。