“つわものどもがゆめのあと”とは

* つわものどもがゆめのあと とは

「夏草や兵どもが夢の跡」

松尾芭蕉が門下の川合曽良と共に旅をした”奥の細道”の終点、平泉(今の岩手県平泉町)で詠んだとされている言葉です。

三代の栄華を誇った奥州藤原氏が、蝦夷の攻撃を受けたことにより、優れた忠義な家来たちが高館(たかだち)にこもり功名を競ったものの、それも一時の夢と消え、今では草が生い茂るばかり。

平泉といえば、源氏義経が臣下と共に立てこもり討伐軍と戦った地。例年生い茂っては枯れ…を繰り返す夏草は、それ自体が人の夢の儚さを象徴しているともいわれます。

義経が30年の生涯を閉じたのは、芭蕉が平泉を訪れる500年ほど前のこと。

じゃあなぜタイトルにしたのか。ですが、全く意味がないです。響きです。すみません。(芭蕉は好きですが)

* ちなみに

芭蕉だったら、下記の言葉が好きです。

「謂ひ應せて何か有る」

上記の言葉は弟子の去来の句に対し、ものごとを言い尽くしてしまえば、あとに何が残るのか。という意味合いて伝えたとされています。

俳句は五・七・五・の十七音であり、それはそもそも全てを言い尽くせないことを前提とした文芸。芭蕉は言葉を尽くして表現するのではなく、無駄をそぎ落とした十七音で表した世界に、いかに人生の深みや季節の移ろい、宇宙の神秘を表現し得るか、十七音に無限の広がりを求めたんですね。

それって、芸術作品全てに通ずるんだろうなと思います。自分はかなりの映画好きなんですが、好きな作品ってたいてい観る人によって好き嫌いが天と地で分かれるものだったりして。また、いかにクソ映画と評されているものでも、意外と良かったりして。それって見方によって違う評価をし得る余白を作品が持っているからなんですよね。そして、その余白の評価が人それぞれ違うのは、その人の知識量、これまで生きてきた環境、人間性によって評価(共感)するポイントが変わるから。

人間としても余白を持った、少しどこかミステリアスさを持ち合わせる人の方が好きです。自分もそうありたい。