深津絵里とリリー・フランキーの関係性に憧れる

25歳にもなると、結婚というキーワードを多く耳にする。飲み会の席でも、恋愛トークをしている時も、上司との会話においても(全て飲み会?)。やはり段々と意識し始める年なのかもしれない。(そういう自分は高校の時、23で結婚するなんて思っていた)(若かった)

そういう話をするたびに、なんとなく窮屈な思いを抱くことが多い。それは、結婚を意識すればするほど、恋愛へのハードルが高くなるのか、減点法でパートナーを探す人が多いように感じるから。実際のところ、この前友人の友人ということでお話ししたお姉さまは、年収700万以下の男性は男性としてよくわからない。とおっしゃっていた(わお)。

いつまでも好きという感情に素直に恋愛をしていければいいのに、なんて思うけれど、そんなこと言ってられない年齢に差し掛かることも重々承知ではある。実際のところ、恋愛にすら興味がないと言っていた先輩も最近になって落ち着きたいと言い始めた。(恋愛に興味なくはないものの、自分もそういう感じになる気がしている)

そんなことをぼんやり考えていたら、山崎ナオコーラ先生のエッセイの一節にとても共感したことを思い出した。(下記)

…長く会わないでいた同世代の友人と会うとき、「パートナーシップ」についての話題がよく出る。「最近どう?彼氏は、いる?」「結婚の予定はないの?」等々。
私も聞くし、相手からも聞かれる。
結婚トークは面白いし、自分にその予定がなくても、盛り上がれる。
でも、たまに違和感を覚える。
久々に会う女友だちが、自分の彼氏の話をする。「彼は私にこういうことをしてくれる」「でも、こういうことをして欲しいのにしてくれないのー」「別れた方がいいのかな?」等々。
学生時代は「彼のこんなところが好き!」「先のことはわかんないけど、夢中なの!」と言い合っていたのに、結婚を意識する年代になると、恋愛観が変わるのか?
瞬間における人との心の触れ合いを重ねていくことを恋愛だと思ってきたはずなのに、いつの間にか自分の人生にメリットのある関係を築いていくことが恋愛であるかのように会話をしてしまっている。
私はやっぱり、立ち戻って、恋愛を捉えたい。
恋愛においては、「相手が自分に何をしてくれるか」「大事にしてもらえるか」ということよりも、「自分がどうするのか」「自分は相手を大好きだ!」と考えることの方が重要だと、私はこれからも、考えたい。
だから、大好きな人に出会ったときに「出会えただけで十分だ」と私が思う可能性がある。結婚しない人生も私にはあるだろう。
ただ私は、自分の結婚式で蝶ネクタイを締め自分で司会を務めたい、という野望を持っているので、それができなかったら、少し残念だ。

相手が自分になにをしてくれるか、ではなく、自分がどうしてあげたいかを大事にしたい、と思える人に出会えたら、、、それはそれは素敵なはず。(いやぁロマンチック)

とはいえ、恋愛もインタラクティブ。そこが絶妙にむず痒く、面白さでもあると思う。きっと、関係を深めていく中でこの人となら….という想いを抱けないと恋愛できないタイプだろうな、自分は。

いいか、ハッキリ言っとくぞ。三十すぎたら、運命の出会いとか、自然な出会いとか、友達から始まって徐々にひかれあってラブラブとか、一切ないからな。もうクラス替えとか、文化祭とかないんだよ

半沢直樹の影が薄れてきた堺雅人先生も、自身の著書でこんなことを述べている。

しかし、夫婦というものに憧れを抱かないわけでもない。中でもダイワハウスのCMは印象的で、思わずにんまりしてしまう。

深津絵里、リリー・フランキー、の声がいいことはもちろんのこと、ふとした映像、セリフ。全てが等身大なのが素敵。

結婚するならこんな夫婦がいい。

と、そんなことを思った映画があったことも思い出した。それが下記。


ニューヨーク 眺めのいい部屋売ります」。

モーガン・フリーマン、ダイアン・キートンの2人の演技がとてもいい。先ほどのダイワハウスの2人もそうだけれど、無理をしていない関係性に憧れるんだろうな。そして、好きという感情を通り越し、相手を人として尊敬・尊重し続けることが重要なはず。

しかし、それはかなり難しい。(継続という観点において)

結婚披露パーティにはもうなんども出席したから
もういくつくらい祝辞というものを聞いたことになるだろう。
そのなかで憶えているものはひとつしかない。あのひとつしか。

年長の方の、いわゆる「うまくやる秘訣」みたいなものはみんな
雑誌の書く「メイクの秘訣」や「収納の秘訣」ほどにも興味をもてず
私はいつも聞き流していた。そういうものじゃないと思うのだ。
うまくやるとか、つづけるとか、そんな言い方が嫌だったのかもしれない。

ただひとつ、私の胸には違って響いたスピーチがある。
友人の恩師の、ごく短いものだった。
好きだった理由を思い出せるということ。と彼は言った。

門出の祝辞なのに終わった恋愛のように言われて、会場はすこし笑った。
どんなに好きだったかを憶えているということ。
恋愛したそのことを思い出せる夫婦が、幸せなのだと思います。
それをブラックな冗談と受け取って、会場は拍手したのだったか。

結婚して5年、私と夫は仲良くやっている。
ときどきあのスピーチについて考えることがある。
冷めきったわけじゃないし、いまも好きだし、と思いつつ
ほんとうに思い出せるのかというと、内心はあれっととまどう。
それは両手で包んだホタルのような頼りなさで、でもたしかに
そこにあって、ちいさく光って、私を安心させる。そんなこのごろ。

上記は、コピーライター一倉宏先生のコピー。
出会った頃のあの想いを思い出す。出会えたことに感謝する。そんなことを繰り返せる夫婦関係を築ける夫婦。憧れちゃうなぁ。

今では夫婦が再度愛を誓い合う、「バウリニューアル」が流行っているけど、純粋に素敵で、すごくいい取り組みだと思う。

* バウリニューアル デイ

この人とよくぞ出会えた、と思うことが、まれにある。
そう思うからには、その人物は自分にとって少なからず重要な人間(例えば、恋人とか、恩人とか、特別な友人)なのだが、それにもかかわらず、出会いはと言えば、なんとも頼りない数々の偶然の上に起こっていることに、いまさらながら気づく。
あの時、もし違う学校に入っていたら、と思う。
もし違う学部を選んでいたら、もしあの時、僕があんな気まぐれを起こさず、違うゼミに所属していたら。
あの時、別の道を通っていたら、家を出るのが五分遅かったら、バスが一分早く来ていたら。
自分とその人との間に共通の知人がいなかったら。いたとしてもその知人が僕らを引きあわせることを思いつかなかったら。
もしそうなら、私とその人は、永遠に知りあうこともなかったであろう。
思えば人間の出会いとは、ぜんぶがぜんぶ、そんなことの積み重ねでできている。そう考えると、なにか心細くもあり、どこか空おそろしくもあり、よく考えると、胸をしめつけられるように切なくなったりもするのだ。
でも、人と人はそうやって出会う。
六十数億もの人間の中から、数えきれないほどの奇蹟のような偶然を乗り越えて、その人に出会ってしまうのだ。出会ってしまうだけではない。その人は自分の人生の中できわめて大切な役割を果たしてくれるのである。
そういう人に対しては、
「よくもまあ、お会いできたものです」
そう言いたくなりませんか。その人が自分にしてくれたことへのお礼というより、出会ったことそのものにお礼がしたい、祝福をささげたい、という気になってしまう。
「あなたに会えたお礼です。」
サントリーウイスキーのギフトコピーは、そんなことを思いながら書いた。贈るウイスキーに添えるカードに記す言葉。そんなイメージでさがした言葉である。
でも僕は、そうやって出会ったふたりを「出会う運命にあった」などと美化するつもりはない。出会うことはまったくの偶然である。問題は出会ったあとの関係のつくりかただ。
新しい人と出会い、その都度、その人との人間関係を、きちんとていねいに育てる人を見ていると、心から尊敬してしまう。

大事にしなくちゃね。(上記は、岩崎俊一さんのコピー)

ってことで、何が言いたいのかの主題を忘れてきたところでおしまい

関連するのはこちらとか。

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